山口県の文化財

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2022/02/01 【文化財小話】山口県の山城

 「趣味は城めぐり」という人は昔から多くいますが、最近は「山城めぐり」が好きという人が増えてきました。「天空の城」で知られる竹田城跡(兵庫県朝来市)が有名になってから、「山城ブーム」が到来したといわれています。「山城」とは、字のごとく高所に立地する城という意味です。山城は戦のための軍事施設で、日本史上では戦国時代が最盛期です。もちろん、城が作られたのは山だけではありません。平野に築かれた「平城」、小高い台地上に築かれた「平山城」、海に囲まれた小島に作られた「海城」もありますが、日本は山地が多い土地柄なので、全国の城跡の大半は山城です。

 山口県に城跡はどれほどあるのでしょうか。山口県教育委員会が刊行した『山口県中世城館遺跡総合調査報告書』(図書館で閲覧可能)によれば、古代~近世の城跡(屋敷跡等を含む)は439あります。まだ未発見の城跡が存在する可能性は高いので、実数はもっと多くなると思われますが、山口県にも多くの城跡があることがわかります。このうち、山城は368で全体の83.8%を占めます。

 一般的に山城は、中小豪族が割拠する地域や大名領地の境目、河川交通や陸上交通の要衝に多い傾向があります。山口県ではどうでしょうか。県内でも、肥中街道・赤間関街道、山陽道、石州街道、岩国往来、山代街道など、近世に主要道として栄えた街道沿いや、厚狭川、椹野川、佐波川、由宇川、錦川などの主要河川沿いの随所に城跡があります。一方で、城跡の密度は全体的に高くないという特徴もあります。例えば、多くの中小豪族が存在し政情不安が常態化していた感のある周防の隣国、石見(島根県西部)と比較すると、その密度は約1/2になります。ただし、県内でも城跡分布が比較的高い地域は存在し、前記の報告書によれば、そのような地区として、山口盆地北部(山口市上宇野令~下宇野令一帯)、岩国市周東町祖生、下関市豊北町阿川、山口市阿東嘉年が顕著です。では、次にそれらの地域に少し注目してみましょう。

 山口盆地北部では高嶺城跡(山口市上宇野令)を中心に山城8城が分布します。城が多く築かれた背景には、弘治元年(1555)の毛利氏の侵攻と大内義長の敗退、義長死後の大内氏残党による挙兵や永禄12年(1569)の大内輝弘の乱において、比較的短期間とはいえ、この地が繰り返し戦地になった歴史があるのかもしれません。


高嶺城跡(画像提供:山口市教育委員会)

高嶺城跡(画像提供:山口市教育委員会)


 祖生は祖生郷として中世史料に登場する小盆地で5城が高密分布しますが、足利直冬、陶興房といった著名な武将が支配し、寺社が非常に多いことでも知られています。ここはおそらく古くから政治・経済・文化などの地域拠点として機能していたのでしょう。

 阿川と嘉年はそれぞれ交通の要地です。阿川は、油谷湾口を擁し赤間関街道(北浦道筋)が通過する水陸両面の交通の要衝で4城が湾を囲むように分布します。嘉年は石州街道(白坂道筋)が通ると共に、吉部野を経て徳佐市の野坂道筋へ至る道への起点で8城が近接して分布します。ここには近世に本陣(大名などの宿泊・休憩施設)、高札場(法令を掲示した厳かな施設)などがあったことから、古くから地域の経済的な拠点として繁栄していたことがうかがえます。

 山口県内の城跡分布から見えてくるのは、紛争多発地域の姿ではなく、経済政策が重視され比較的安定的に支配された地域の姿です。城跡から見た山口県の中世史は、大局的には、大内氏が領国の安定を確立し、その経営が毛利氏に引き継がれ、戦国時代の戦火が防長全土に拡大することなく近世に至った歴史であるという見方もできるかもしれません。(I)


山口市阿東嘉年の山城跡

山口市阿東嘉年の山城跡


山口盆地北部の山城跡

山口盆地北部の山城跡