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大内氏/内容

◇南北朝時代

 鎌倉幕府を倒したあとの後醍醐天皇は、京都で公家を中心とした政治をおこないました。そのため武家から不満があがり、それをうけて足利尊氏が兵を挙げました。
   尊氏側は、一時は劣勢で、九州へのがれましたが、その地で勢力をもりかえし、再度京都へ攻め上がりました。そして、後醍醐天皇に味方する軍勢に勝って、新たに光明天皇をたて、京都を手中におさめました。
   敗れた後醍醐天皇は、吉野へのがれて朝廷をかまえました。  
   このあと60年ちかく、京都の朝廷(北朝)方と、吉野の朝廷(南朝)方とのあいだで争いがつづきました。   
   この争いは各地にひろがり、北朝にくみする方と、南朝にくみする方とのあいだで、多くのいくさがおこりました。


【大内氏の動向】

敷山城跡  多々良(たたら)氏は、もともと周防国衙(すおうこくが)在庁の高い地位にある役人であり、地元の豪族でした。長い時間をかけて、一族の血と勢力をひろげてきていました。その多々良氏の本流が、大内氏です。大内(現山口市)に拠点をおいていました。(当時の文書には、たとえば大内弘世と書かれたものはなくていずれも多々良弘世と書かれていますが、通例にしたがって大内姓で書きました。) 
 大内弘世(ひろよ)は、その大内氏の嫡男です。 
   しかし、彼が年少のころは、父弘幸(ひろゆき)の叔父にあたる、鷲頭長弘(わしずながひろ)のほうに勢いがありました。長広は、1336年(延元1・建武3)、九州へ下向してきた足利尊氏に味方し、尊氏の京都奪回を援助しました。その功で、周防国の守護職を尊氏(北朝)より任じられました。
 これによって大内氏の一族は中央の武家機構にくみこまれ、以後、その動向は中央の動きと連動していくことになります。 

   おなじ1336年、足利尊氏が京へ上ったあとの周防では、防府の敷山城(しきやまじょう)に、弘幸の弟弘直(ひろなお)らが南朝方として兵を挙げ、北朝方と戦いました。結果は敗北におわりましたが、周防長門両国における南朝と北朝の争いは、このときよりはじまったのです。

   実力者であった長広が死去してほどなく、1351年(正平6・観応2)、弘世は、南朝方にたって周防国守護の任命をうけました。これによって、鷲頭氏を攻めても私闘ではなく、大義であるという名分ができました。鷲頭氏の本拠は、現在の下松市にあたり、弘世はそこまで軍勢をすすめて長広の後継を攻め、これを支配下におきました。一族の当主であること、その面目がとりもどせた瞬間です。 

 一族をまとめた弘世は、そののち数年かけて一族以外の実力者をとりこみ、周防国全体を支配下におきました。そして、1355年(正平10・文和4)、長門国へ軍勢をすすめ、長門国守護の厚東義武(ことうよしたけ)を攻めました。1358年(正平13・延文3)には、厚東氏の居城である霜降城(しもふりじょう)を落とし、厚東義武を九州へ敗走させ、南朝より長門国守護に任じられました。  
  厚東義武の方は、敗れたとはいえそのままでは引き下がらず、その後、九州で兵をつのり、幾度も大内氏と戦いました。

  1363年(正平18・貞治2)、幕府の大物である細川頼之の誘いをうけた弘世は、北朝方にかわり、幕府より周防国と長門国の守護を任じられました。そのため、厚東義武が南朝方へうつり、南朝から長門国守護を任じられています。 

  翌年、豊前国でおこった戦いで、弘世は、厚東義武や菊池氏らの九州連合軍に敗れ、長門国を厚東氏に返すことで和睦(わぼく)しました。 
 太平記には、このあと弘世は上京して将軍に拝謁したとあります。そして、京都の町の人々に対して、貴賎を問わず、銭貨や唐物をふりまいたといいます。すでに私貿易などで利を得ていたことをうかがわせる記述です。 

 さて、返すと約束した長門国ですが、けっきょく返されることはなく、二年後、ふたたび弘世が九州へ軍勢を進めようとしたため、厚東義武や菊池氏とのあいだでいくさになりました。この戦いでも弘世は敗れました。

  けれども厚東義武は、その後いつのまにか記録から姿を消しています。
 長門国は弘世の領国に定まります。こののち、周防国と長門国は、大内氏の基盤として、二百年後に大内氏が滅びるまで、その活動を支えていきました。 

 その後、弘世は石見国の守護職をえて、石見国を平定しています。また、安芸国へもたびたび出陣して、影響力をのばしています。  
 このように、弘世の一生は、一族の主導権争いにはじまり、周防国、長門国、さらには周辺の国々まで、勢力をのばすことについやされたのでした。


【関連する文化財】

名称 所在地
絹本着色仏国国師像 岩国市
紙本墨画淡彩乗福寺伽藍図   山口市
敷山城跡 防府市
勝栄寺土塁及び旧境内 周南市
霜降城跡 宇部市
住吉神社本殿 下関市
石屏子介禅師墨蹟 萩市
木造石屏子介禅師坐像 山口市
鷺の舞 山口市

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◇室町幕府

 鎌倉幕府を倒したあとの後醍醐天皇は、京都で公家を中心とした政治をおこないました。そのため武家から不満があがり、それをうけて足利尊氏が兵を挙げました。
   尊氏側は、一時は劣勢で、九州へのがれましたが、その地で勢力をもりかえし、再度京都へ攻め上がりました。そして、後醍醐天皇に味方する軍勢に勝って、新たに光明天皇をたて、京都を手中におさめました。
   敗れた後醍醐天皇は、吉野へのがれて朝廷をかまえました。  
   このあと60年ちかく、京都の朝廷(北朝)方と、吉野の朝廷(南朝)方とのあいだで争いがつづきました。   
   この争いは各地にひろがり、北朝にくみする方と、南朝にくみする方とのあいだで、多くのいくさがおこりました。


【大内氏の動向】

地方の一守護にすぎなかった大内氏を、全国的な存在におしあげたのが、弘世の嫡男である大内義弘(よしひろ)です。
 彼の人生は、室町幕府の動きと密接に関わっていました。それは今川貞世(いまがわさだよ、のち了俊りょうしゅん)と足利義満との出会いによってもたらされたものでした。 まず、若年のときに今川貞世と出会います。
1371年(建徳2)、今川貞世は、九州探題の任をにない、西国平定のため九州へ向う途中、大内氏のもとにより、援助を求めました。義弘(このとき16歳)は弘世につきしたがい、軍勢とともに九州にわたりました。
 当時の九州は、大宰府にいる懐良親王と菊地武光が覇権をうちたて、南朝側の勢力下においていました。
  今川貞世らの軍勢は、翌年大宰府を攻め落とし、それを機会に大内氏の兵は山口に引き上げましたが、いくさはつづきました。
 やがて今川貞世の方が劣勢になり、幕府から大内氏へ、ふたたび今川を助けるよう要請がきました。このとき義弘は幕府に協力する姿勢でしたが、弘世はそこまで協力する意思はなく、父子のあいだで方向性のちがいがあらわになりました。結局、義弘は少ない手勢をひきいて参じることにし、今川を助けて各地で戦いました。
木造大内義弘坐像
 1389年、将軍足利義満が厳島神社参詣の旅に出、瀬戸内を西へ下ってきました。義弘は防府三田尻で款待(かんたい)し、そのあと義満にしたがって京都へ上りました。
 義満との出会いは、義弘に、中央での活躍の場を与えるものになります。
京都へのぼった翌々年、山名氏清らの乱がありました。義弘ら大内氏の兵は前線で戦いました。その功によって、和泉・紀伊の守護に任じられました。
その翌年の1392年(元中9・明徳3)には、南北朝合一に尽力をつくしました。
しかし、二年後、義満の北山別荘(金閣寺)の賦役を、武士のする仕事ではないと断り、上洛催促にも応じませんでした。それでも、幕府の命による九州出陣にはしたがい、菊池氏や小弐氏と戦って鎮定しましたが、弟満弘を戦死させています。
1395年に今川貞世が九州探題を解任されると、貞世にかわって朝鮮との交易をはじめました。
ほどなく、義弘に謀反の噂がながれました。そこで、義弘は状況をみきわめるために堺まで軍勢をすすめます。
堺に陣取った義弘は、交渉決裂のあと、幕府軍をむかえうち、敗死しました。44歳でした。
木造大内盛見坐像  義弘のあと、当主になったのは弟の盛見です。盛見は、義弘より二十歳年下で、このとき24歳、山口で留守を守っていました。義弘とともに上京した弟弘茂が、幕府に降って周防・長門の守護職をもらったのに対し、盛見はあくまでも幕府に対抗しました。
 弘茂は幕府軍を率いて、盛見を攻めました。盛見はいったん九州へ逃れ、態勢をたてなおして反撃、弘茂を敗死においこみました。
 こうなると、幕府も盛見の実力を認めざるをえず、盛見を周防・長門・豊前・筑前の守護に任じました。
義弘・盛見のころから大内氏の勢いは強くなって、大内氏の菩提寺(ぼだいじ)を中心に、香積寺(現瑠璃光寺)をはじめとする寺院などの建立が盛んになっています。仏書の出版が盛んに行われ、五山文化に名をのこす高僧らが山口にきて菩提寺の開祖となりました。
また、朝鮮との交易が活発におこなわれ、大蔵経などを得ています。
豊前国の宇佐八幡宮造替が着手されたのも盛見のときのことです。
宇佐八幡宮は国東半島の鉄に深くかかわっています。豊前国にはむかしから有名な銅山があります。筑前国には貿易のかなめの博多の町があります。豊前国も筑前国も宇佐八幡宮も、大内氏にかかせないものとして、こののちずっと財政を支えていきます。
応永の乱後、幕府との仲は良好で、盛見は長期にわたって都に滞在し、幕府の重鎮として政治を支えました。
そして56歳のとき、幕府の命で筑前に出陣中、油断をつかれて陣を襲われ、戦死しました。
 盛見が亡くなるまで、義弘の子息である持世持盛兄弟は、両輪となって大内氏をもりたててきましたが、没後は、二人のあいだで家督が争われ、持世が勝ち、持盛は敗死しました。
こうして、やっと家督を継いだ持世でしたが、その人生は不意に終わります。
1441年(嘉吉1)、将軍足利義教は赤松邸に招かれ、上京していた持世も付き従いました。そして能見物のさなか、赤松満祐の兵が将軍を襲いました(嘉吉の乱)。持世は刀をふるって撃退しましたが、深手を負い、ほどなくして亡くなりました。
木造大内持盛坐像


【関連する文化財】

   

名称  所在地
木造大内義弘坐像 山口市
木造大内盛見坐像 山口市
木造大内持盛坐像 山口市
塑造竜岡玄珠禅師坐像 山口市
絹本着色仁保弘有像 山口市
瑠璃光寺五重塔 山口市
洞春寺観音堂 山口市
洞春寺山門 山口市
竜福寺本堂 山口市
紙本墨画天神図 山口市
浅黄糸威褄取鎧 兜付 防府市
木造薬師如来坐像(金堂安置) 防府市

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◇応仁の乱

 1467年、管領の斯波・畠山両家におきた家督争いと、将軍義政の後継者問題をめぐって、勢力のあった細川氏と山名氏が対立し、応仁の乱がおきました。
   11年つづいたこのいくさのあいだに京都の町は多大な被害を受け、多くの公家が地方の有力者をたよって下向したことにともない、京都の文化が各地にうつり、独自の文化を根づかせました。


【大内氏の動向】

  持世のあとをついだのは盛見の子、教弘(のりひろ)です。教弘の人生には歴史的事件は起きていませんが、着実に勢力拡大と、貿易振興、分国経営の充実をとげています。


  大内家壁書とよばれる法令がいくつもだされるようになったのは、このころからです。
   その中に、教弘の居る大内館がある山口の町と、分国の各地との行程日数が定められ、訴訟の迅速化が図られています(1461年発布)。これをみると、その支配地域は、守護職をもつ周防・長門・筑前・豊前の各国だけでなく、石見国仁摩郡(ここには大森銀山がありました)、安芸国東西条(ここに築いた鏡山城は国史跡になっています。また、西条には安芸国分寺がありました)、芸予諸島(大山祇神社があり、村上水軍の根拠地でもありました)、肥前国神崎郡(ここには、博多総鎮守といわれる櫛田神社と関係の深い櫛田宮があり、櫛田宮は九州大社ともいわれてます)にまでおよんでいます。

  また、明への勘合貿易にも参加し、大きな利益を得ています。
   
    応仁の乱のとき、次の当主の政弘が、大軍を率いて長期にわたって都に滞在できたのも、これら教弘の領国経営の蓄積があったからです。
  
   教弘は、幕府の命により伊予国へ出陣したさい、陣中で病死しました。

   応仁の乱が起きたとき、二年前に家督を継いだばかりの政弘は、22歳の若さで、西国の八カ国による軍勢(二千艘、二万騎ともいわれています)をひきいて上京しました。そして、山名勢ら西軍の劣勢を一気に挽回し、その後も西軍の中心として戦いました。
  
   乱の長いいくさのあいだには、配下の武将が東軍へ寝返り、伯父教幸が分国で叛乱をおこすなど、窮地にたたされたこともあります。 

住吉社法楽百首和歌短冊

 この応仁の乱では、寺社民家だけでなく多くの書物が焼け、昔の文・記録が失われました。そのうえ、予算不足のため朝廷では多くの行事が中止となり、かつ、公家など故実を知るものも戦乱と窮乏に血筋が絶えたり、地方へ下向したりしたために、多くの伝統が途絶えています。

 また長期に渡る京都での滞陣に、参加した各守護の領国が荒れ、乱後に国を家臣に奪われるなど、守護大名が没落する原因にもなりました。

 この応仁の乱を契機に、あらゆる面で変化があらわになります。住居・衣服など、このころ新しく生まれ定着していったものは、現代の私たちの生活様式の基礎となっています。

 11年に及ぶ応仁の乱が終わって帰国した政弘は、九州へ出陣し、領国である筑前豊前をおびやかした少弐氏らを討ち、安定をとりもどしました。
 

 そして、法令をたくさんだして領国内の機構整備をおこないました。戦国家法のはしりである大内家壁書の八割は、政弘の時代にだされています。

 この政弘は、歌道にすぐれ、准勅撰連歌集「新撰菟玖波集」を後援し、また、みずから私歌集「拾塵和歌集」をだしています。
 政弘の交流範囲をみると、雪舟、宗祇、三条西実隆をはじめ、公家、武家、五山禅僧など幅広いものがあり、当代の代表的人物とつうじています。配下の武将にも、文事にひいでた人がいました。
 また、大内殿中文庫は充実をみせ、古今東西のすぐれた書籍がおさめられていました。


 政弘のすむ山口には、高名な禅僧や応仁の乱による戦火をさけた京の公家たちが多く下向しており、すぐれた文化圏が形成されていました。

 山口が、西の京とよばれるにあたいする最盛期をむかえるのは、孫の義隆の時代ですが、その土台と骨組は、政弘によって築かれたのでした。

 1496年(明応4)、中風にかかった政弘は、家督を嫡男義興(よしおき)に譲りました。その四ヵ月後、戦陣で没するのが常であった大内家当主にしてはめずらしく、寓居でしずかに亡くなりました。

大内版妙法蓮華経板木


【関連する文化財】

  

名称 所在地
石城神社本殿 光市
若山城跡 周南市
絹本著色陶弘護像 周南市
紙本墨画淡彩湖亭春望図 岩国市
紙本墨画山水図 雪舟筆 山口市
紙本淡彩牧牛図(牧童) 雪舟筆 山口市
紙本淡彩牧牛図(渡河) 雪舟筆 山口市
紙本墨画淡彩四季山水画 雪舟筆   防府市
絹本着色全岩東純和尚像 山口市
常栄寺庭園 山口市
漆塗足付盤 山口市
木造扁額「氷上山」 山口市
大内版妙法蓮華経板木 山口市
正法眼蔵八十三巻 山口市
住吉社法楽百首和歌短冊 下関市
大内家壁書 下関市

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◇戦国の世

 応仁の乱のあと、下剋上がさかんになり、戦国大名といわれる人々があらわれたように、各地で旧勢力と新勢力の戦いがおこりました。
  戦国大名は独自の分国法を定め、富んだ領国にするために治水かんがい事業や鉱山開発、自領の商人の保護をおこない、城下町を形成していきました。
 港町、門前町、寺内町が繁栄したように商工業が発展し、堺や博多の商人など町人が力をつけて自治組織をつくり、大名に対抗するようになりました。


【大内氏の動向】

 義興の生涯は、足利義稙(義尹・義材とも名乗る、第11・13代将軍)と深く関わることで、かたちづくられています。義稙を山口に滞留させていた9年間、義稙を奉じて京都で政治をつかさどっていた11年間、そして京都滞在中にゆらいだ領国の建て直しにおわれた晩年の10年間。

 義興が18歳で当主になって四年後の1499年(明応8)、細川政元によって追われた前将軍足利義稙が、大内氏を頼って、下向してきました。義稙は、義興の力によって将軍職に返り咲くまで大内氏の庇護下にありました。

 義稙は、管領細川氏によって将軍職を追われたのですが、この件より以後、将軍職は細川氏に左右され、幕府の実権は将軍の手をはなれました。

漆絵枝菊椀(大内椀)

   1508年(永正5)、義興は、前将軍義稙を奉じて上洛、細川高国と結んで、義稙は将軍職に、高国は管領になりました。そして義興は都のある山城国の守護となって、幕府の実権をにぎりました。
 義興が京都にいるあいだ、都には戦も動乱もなく、平和な日々がつづきました。

 応仁の乱は、細川氏と山名氏の争いだけでなく、日明貿易をめぐる大内氏と細川氏の戦いでもありましたが、義興のときに遣明船の管理を大内氏が独占しました。

 1518年(永正15)義興は、領国の支配が不安定になってきたため、11年間の京都滞在をきりあげて、帰国しました。

  義興が帰国して三年後、義稙は将軍職を追われました。そのころ義興は、山陰に台頭してきた尼子氏と、連年戦っていました。(将軍職を失った義稙は、その二年後に亡くなっています)
 尼子氏とは、次の義隆の時代にも、たびたびいくさがあり、ついに大きな痛手をおうことになります。

 義興のころ、朝鮮との交易が、おもうように利をあげなくなっていました。日明貿易では、細川氏と寧波でいさかいをおこし、明との関係がこじれることがありました。けれども日明貿易は、この件以降、大内氏が名実ともに日明貿易を独占して、莫大な利を得ています。


 義興の父政弘は文芸の分野で高名でしたが、義興はその文芸を階層をとわず普及させて、充実させています。ことに家臣の武将に、文の道にあかるい人が多く現れています。
 また有職故実にも熱心で、伊勢家との問答集が残っています。
 
 義興は、安芸国で尼子氏と対陣中、病にかかり、帰国後、52歳で亡くなりました。

 義興のあと、嫡男義隆(よしたか)が当主になりました。このとき22歳。
  
 義隆は当主になって四年後、自ら長府にすすみ長期にわたって陣をかまえ、兵を出して少弐氏と大きないくさを起しています。その後、太宰大弐の位を授けられ、少弐氏より上の官位をもつことで少弐氏の行動を封じ、ついに、百年以上にわたる長い争いに終止符をうちます。

 そののちは、尼子氏とのいくさに焦点がうつります。出雲国を拠点とする尼子氏は、安芸国と備後国へ侵入してきていました。

絹本着色大内義隆画像

 尼子氏とのあいだでは、石見国大森銀山が、争いのまとの一つになっていました。このころ灰吹き法によって銀の精錬技術を高める方法が得られ、それによって大森銀山の産出量が飛躍的に増えていきます。この銀は、貿易とならんで大内氏の財政をうるおしていました。

 1542年(天文11)義隆は出陣し、尼子氏の本拠である月山富田城攻略へむかいました。義隆本人が出陣することは珍しく、それだけこの戦いに対する大内氏の意気込みがわかります。

 しかし、いくさの途中で当地の国人層の離反がおこり、あえなく敗北、撤退中には養嗣子である晴持まで亡くします。
 

 義隆は、父や祖父のあらゆる遺産をうけつぎ融合させ、さらに高めています。勢力範囲や官位もそうですが、文芸面においても多方面に熱心でした。
 また、それまでの当主が仏教や禅宗に力をいれていましたのでもちろんそれらも義隆は吸収していましたが、さらに儒学・神道について熱心に学んでいます。
(神道では、義興のときに伊勢神宮の分霊を山口に迎え、高嶺山麓に内宮外宮をつくっています。また、義隆は吉田神道にふかく関わっています。)

 こういったことは義隆についてだけではありませんでした。大内館のある当時の山口の町には、唐本屋があり、茶の湯、茶室、生け花にあふれ、出版や宗論が盛んで、西の京とよばれるにふさわしい活気ある姿をみせていました。ザビエルが布教のために訪れ、宗論をおこなったのはこの頃です。

大内氏勘合貿易印等関係資料

 しかし、1551年(天文20)、周防国守護代である陶晴賢(すえはるかた)に謀叛をおこされ、大内義隆は自害においこまれました。
 
 そして晴賢は、豊後国の守護大名大友宗麟(おおともそうりん)の弟である晴英(大内義隆の姉の子)を当主にむかえました。晴英は義長(よしなが)と改名して、大内家督をつぎましたが、納得しない配下の武将も多くいました。

 1555年(弘治1)に晴賢は、厳島の合戦で、毛利元就(もうりもとなり)に敗れ、自害しました。

 毛利氏は山陽道筋に岩国から侵入し、時間をかけて着実に周防国長門国を手中にしていきました。そして1557年(弘治3)、義長は長門国長府で自害させられ、周防・長門両国は毛利氏の支配下におかれました。

 その後、しばらくは新領主に対する大内氏遺臣の反抗が断続的にありました。1569年(永禄12)には、義隆の従兄弟にあたる大内輝弘が、大友義鎮の援助で兵をひきいて、豊後より瀬戸内海をこえて山口の町に侵入しています。しかしこのとき輝弘のもとに参じた地元の有力者はわずかで、みなすぐに滅ぼされています。時代はすでに大内氏を過去のものにしていました。


【関連する文化財】

  

名称 所在地 
紙本着色松崎天神縁起写  防府市
今八幡宮本殿 山口市
今八幡宮拝殿 山口市
今八幡宮楼門 山口市
清水寺山王社本殿 山口市
清水寺観音堂 山口市
八坂神社本殿 山口市
古熊神社本殿 山口市
古熊神社拝殿 山口市
梵鐘(大内義隆寄進) 山口市
鰐口(大内義隆寄進) 山口市
絹本着色大内義隆画像 山口市
大内氏勘合貿易印等関係資料   防府市
漆絵枝菊椀(大内椀) 防府市
大内義隆主従の墓所 長門市
大寧寺境内 長門市
紙本墨書吾妻鏡 岩国市
大内版三重韻 岩国市

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