【大内氏の動向】
多々良(たたら)氏は、もともと周防国衙(すおうこくが)在庁の高い地位にある役人であり、地元の豪族でした。長い時間をかけて、一族の血と勢力をひろげてきていました。その多々良氏の本流が、大内氏です。大内(現山口市)に拠点をおいていました。(当時の文書には、たとえば大内弘世と書かれたものはなくていずれも多々良弘世と書かれていますが、通例にしたがって大内姓で書きました。) |
大内弘世(ひろよ)は、その大内氏の嫡男です。 しかし、彼が年少のころは、父弘幸(ひろゆき)の叔父にあたる、鷲頭長弘(わしずながひろ)のほうに勢いがありました。長広は、1336年(延元1・建武3)、九州へ下向してきた足利尊氏に味方し、尊氏の京都奪回を援助しました。その功で、周防国の守護職を尊氏(北朝)より任じられました。 これによって大内氏の一族は中央の武家機構にくみこまれ、以後、その動向は中央の動きと連動していくことになります。 |
おなじ1336年、足利尊氏が京へ上ったあとの周防では、防府の敷山城(しきやまじょう)に、弘幸の弟弘直(ひろなお)らが南朝方として兵を挙げ、北朝方と戦いました。結果は敗北におわりましたが、周防長門両国における南朝と北朝の争いは、このときよりはじまったのです。 実力者であった長広が死去してほどなく、1351年(正平6・観応2)、弘世は、南朝方にたって周防国守護の任命をうけました。これによって、鷲頭氏を攻めても私闘ではなく、大義であるという名分ができました。鷲頭氏の本拠は、現在の下松市にあたり、弘世はそこまで軍勢をすすめて長広の後継を攻め、これを支配下におきました。一族の当主であること、その面目がとりもどせた瞬間です。 |
一族をまとめた弘世は、そののち数年かけて一族以外の実力者をとりこみ、周防国全体を支配下におきました。そして、1355年(正平10・文和4)、長門国へ軍勢をすすめ、長門国守護の厚東義武(ことうよしたけ)を攻めました。1358年(正平13・延文3)には、厚東氏の居城である霜降城(しもふりじょう)を落とし、厚東義武を九州へ敗走させ、南朝より長門国守護に任じられました。
厚東義武の方は、敗れたとはいえそのままでは引き下がらず、その後、九州で兵をつのり、幾度も大内氏と戦いました。
1363年(正平18・貞治2)、幕府の大物である細川頼之の誘いをうけた弘世は、北朝方にかわり、幕府より周防国と長門国の守護を任じられました。そのため、厚東義武が南朝方へうつり、南朝から長門国守護を任じられています。 翌年、豊前国でおこった戦いで、弘世は、厚東義武や菊池氏らの九州連合軍に敗れ、長門国を厚東氏に返すことで和睦(わぼく)しました。 |
さて、返すと約束した長門国ですが、けっきょく返されることはなく、二年後、ふたたび弘世が九州へ軍勢を進めようとしたため、厚東義武や菊池氏とのあいだでいくさになりました。この戦いでも弘世は敗れました。
けれども厚東義武は、その後いつのまにか記録から姿を消しています。
長門国は弘世の領国に定まります。こののち、周防国と長門国は、大内氏の基盤として、二百年後に大内氏が滅びるまで、その活動を支えていきました。
その後、弘世は石見国の守護職をえて、石見国を平定しています。また、安芸国へもたびたび出陣して、影響力をのばしています。
このように、弘世の一生は、一族の主導権争いにはじまり、周防国、長門国、さらには周辺の国々まで、勢力をのばすことについやされたのでした。
【関連する文化財】
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【大内氏の動向】
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【大内氏の動向】
持世のあとをついだのは盛見の子、教弘(のりひろ)です。教弘の人生には歴史的事件は起きていませんが、着実に勢力拡大と、貿易振興、分国経営の充実をとげています。
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また、明への勘合貿易にも参加し、大きな利益を得ています。
応仁の乱のとき、次の当主の政弘が、大軍を率いて長期にわたって都に滞在できたのも、これら教弘の領国経営の蓄積があったからです。
教弘は、幕府の命により伊予国へ出陣したさい、陣中で病死しました。
応仁の乱が起きたとき、二年前に家督を継いだばかりの政弘は、22歳の若さで、西国の八カ国による軍勢(二千艘、二万騎ともいわれています)をひきいて上京しました。そして、山名勢ら西軍の劣勢を一気に挽回し、その後も西軍の中心として戦いました。
乱の長いいくさのあいだには、配下の武将が東軍へ寝返り、伯父教幸が分国で叛乱をおこすなど、窮地にたたされたこともあります。
11年に及ぶ応仁の乱が終わって帰国した政弘は、九州へ出陣し、領国である筑前豊前をおびやかした少弐氏らを討ち、安定をとりもどしました。
そして、法令をたくさんだして領国内の機構整備をおこないました。戦国家法のはしりである大内家壁書の八割は、政弘の時代にだされています。
この政弘は、歌道にすぐれ、准勅撰連歌集「新撰菟玖波集」を後援し、また、みずから私歌集「拾塵和歌集」をだしています。
政弘の交流範囲をみると、雪舟、宗祇、三条西実隆をはじめ、公家、武家、五山禅僧など幅広いものがあり、当代の代表的人物とつうじています。配下の武将にも、文事にひいでた人がいました。
また、大内殿中文庫は充実をみせ、古今東西のすぐれた書籍がおさめられていました。
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【大内氏の動向】
義興の生涯は、足利義稙(義尹・義材とも名乗る、第11・13代将軍)と深く関わることで、かたちづくられています。義稙を山口に滞留させていた9年間、義稙を奉じて京都で政治をつかさどっていた11年間、そして京都滞在中にゆらいだ領国の建て直しにおわれた晩年の10年間。
義興が18歳で当主になって四年後の1499年(明応8)、細川政元によって追われた前将軍足利義稙が、大内氏を頼って、下向してきました。義稙は、義興の力によって将軍職に返り咲くまで大内氏の庇護下にありました。
義稙は、管領細川氏によって将軍職を追われたのですが、この件より以後、将軍職は細川氏に左右され、幕府の実権は将軍の手をはなれました。
義興が帰国して三年後、義稙は将軍職を追われました。そのころ義興は、山陰に台頭してきた尼子氏と、連年戦っていました。(将軍職を失った義稙は、その二年後に亡くなっています)
尼子氏とは、次の義隆の時代にも、たびたびいくさがあり、ついに大きな痛手をおうことになります。
義興のころ、朝鮮との交易が、おもうように利をあげなくなっていました。日明貿易では、細川氏と寧波でいさかいをおこし、明との関係がこじれることがありました。けれども日明貿易は、この件以降、大内氏が名実ともに日明貿易を独占して、莫大な利を得ています。
義興の父政弘は文芸の分野で高名でしたが、義興はその文芸を階層をとわず普及させて、充実させています。ことに家臣の武将に、文の道にあかるい人が多く現れています。
また有職故実にも熱心で、伊勢家との問答集が残っています。
義興は、安芸国で尼子氏と対陣中、病にかかり、帰国後、52歳で亡くなりました。
尼子氏とのあいだでは、石見国大森銀山が、争いのまとの一つになっていました。このころ灰吹き法によって銀の精錬技術を高める方法が得られ、それによって大森銀山の産出量が飛躍的に増えていきます。この銀は、貿易とならんで大内氏の財政をうるおしていました。
1542年(天文11)義隆は出陣し、尼子氏の本拠である月山富田城攻略へむかいました。義隆本人が出陣することは珍しく、それだけこの戦いに対する大内氏の意気込みがわかります。
しかし、いくさの途中で当地の国人層の離反がおこり、あえなく敗北、撤退中には養嗣子である晴持まで亡くします。
しかし、1551年(天文20)、周防国守護代である陶晴賢(すえはるかた)に謀叛をおこされ、大内義隆は自害においこまれました。
そして晴賢は、豊後国の守護大名大友宗麟(おおともそうりん)の弟である晴英(大内義隆の姉の子)を当主にむかえました。晴英は義長(よしなが)と改名して、大内家督をつぎましたが、納得しない配下の武将も多くいました。
1555年(弘治1)に晴賢は、厳島の合戦で、毛利元就(もうりもとなり)に敗れ、自害しました。
毛利氏は山陽道筋に岩国から侵入し、時間をかけて着実に周防国長門国を手中にしていきました。そして1557年(弘治3)、義長は長門国長府で自害させられ、周防・長門両国は毛利氏の支配下におかれました。
その後、しばらくは新領主に対する大内氏遺臣の反抗が断続的にありました。1569年(永禄12)には、義隆の従兄弟にあたる大内輝弘が、大友義鎮の援助で兵をひきいて、豊後より瀬戸内海をこえて山口の町に侵入しています。しかしこのとき輝弘のもとに参じた地元の有力者はわずかで、みなすぐに滅ぼされています。時代はすでに大内氏を過去のものにしていました。
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