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雪舟の略歴

◇雪舟の略歴

   雪舟は、備中赤浜(今の岡山県総社市)に生まれたといわれています。 

   12歳のころに、京都にある相国寺にはいり、禅の修業をつみました。この相国寺に、幕府の御用絵師をもつとめる画僧の周文という人がいました。雪舟は、彼から画を学んだとされています。 

 そののち、30歳代後半ごろに、山口の町にきて庵(いおり)をむすびました。その庵は雲谷庵(うんこくあん)と名づけられました。

 1467年(応仁1)49歳のとき、遣明船で明(いまの中国)にわたりました。明という水墨画の本場を見聞し、禅僧と交わり、ここでも絵を描いています。  

 日本へ帰ってからは、山口をはじめ、豊後(今の大分県)、美濃(今の岐阜県)、東国、山陰など各地を巡り、方々で画をかきました。

 そして、十数年後に、ふたたび山口の雲谷庵におちつきました。山口においては、その地にすむ守護大名の大内政弘だけでなく、著名な人物や、友人が、遠方からでも、足しげく訪れています。

 雪舟は、この平和な町で、数々の水墨画の傑作をえがき、晩年をおくりました。


西暦(和暦)  歳  雪舟 社会
1420(応永27) 1 備中で生まれる  
1430(永享2)? 12 この頃に京都・相国寺にはいる? (1428年正長の土一揆、1429年播磨の土一揆)
1445(文安2) 26   大内政弘が生まれる
1449(宝徳1) 30   足利義政が将軍になる
1456(康正2)? 37 この頃に山口に来住  
1460(寛正1) 41   寛正の大飢饉。このころ周文死去
1464(寛正5) 45 恵鳳が雲谷庵を訪問 足利義視が義政の養子に
1465(寛正6)   この頃、雪舟と号す 大内教弘死去。足利義尚生まれる
1467(応仁1) 48 遣明船で、明の寧波に上陸 応仁の乱起る。政弘・軍勢を率いて上京
1468(文明1) 49 明に滞在 うちつづく戦乱が地方へもひろがっていく
1469(文明2) 50 帰国の途へ  
1473(文明5) 54 山口で「安世永全像」描く 宗全・勝元死去、義尚が将軍に
1476(文明8) 57 豊後の天開図画楼にいる 政弘「君台観左右帳記」贈られる
1477(文明9) 58   政弘帰国、応仁の乱終結。大内義興生まれる
1478(文明10) 59   政弘が小弐氏を破り、領国の筑前・豊前を奪回
1479(文明11) 60 「益田兼堯像」を描く 右大臣三条公敦、山口に下向
1480(文明12) 61   宗祇、山口を訪れる
1481(文明13) 62 美濃へ、万里集九らと交わる 一条兼良・一休・朝倉孝景死去
1486(文明18) 67 山口で「四季山水図」(山水長巻)を描く   〔1485年、山城の国一揆〕
1495(明応4) 76 「破墨山水図」を描き、宗淵に与える 新撰菟玖波集ができる。政弘死去
1496(明応5) 77 「慧可断臂図」「全岩東純像」を描く 日野富子死去
1500(明応9) 81   前将軍義稙、山口に入る。1508年の上洛まで滞在
1506(永正3)? 87 雪舟死去 大内義隆生まれる。万里集九「梅花無尽蔵」できる

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