12歳のころに、京都にある相国寺にはいり、禅の修業をつみました。この相国寺に、幕府の御用絵師をもつとめる画僧の周文という人がいました。雪舟は、彼から画を学んだとされています。
そののち、30歳代後半ごろに、山口の町にきて庵(いおり)をむすびました。その庵は雲谷庵(うんこくあん)と名づけられました。
1467年(応仁1)49歳のとき、遣明船で明(いまの中国)にわたりました。明という水墨画の本場を見聞し、禅僧と交わり、ここでも絵を描いています。
日本へ帰ってからは、山口をはじめ、豊後(今の大分県)、美濃(今の岐阜県)、東国、山陰など各地を巡り、方々で画をかきました。
そして、十数年後に、ふたたび山口の雲谷庵におちつきました。山口においては、その地にすむ守護大名の大内政弘だけでなく、著名な人物や、友人が、遠方からでも、足しげく訪れています。
雪舟は、この平和な町で、数々の水墨画の傑作をえがき、晩年をおくりました。
西暦(和暦) | 歳 | 雪舟 | 社会 |
1420(応永27) | 1 | 備中で生まれる | |
1430(永享2)? | 12 | この頃に京都・相国寺にはいる? | (1428年正長の土一揆、1429年播磨の土一揆) |
1445(文安2) | 26 | 大内政弘が生まれる | |
1449(宝徳1) | 30 | 足利義政が将軍になる | |
1456(康正2)? | 37 | この頃に山口に来住 | |
1460(寛正1) | 41 | 寛正の大飢饉。このころ周文死去 | |
1464(寛正5) | 45 | 恵鳳が雲谷庵を訪問 | 足利義視が義政の養子に |
1465(寛正6) | この頃、雪舟と号す | 大内教弘死去。足利義尚生まれる | |
1467(応仁1) | 48 | 遣明船で、明の寧波に上陸 | 応仁の乱起る。政弘・軍勢を率いて上京 |
1468(文明1) | 49 | 明に滞在 | うちつづく戦乱が地方へもひろがっていく |
1469(文明2) | 50 | 帰国の途へ | |
1473(文明5) | 54 | 山口で「安世永全像」描く | 宗全・勝元死去、義尚が将軍に |
1476(文明8) | 57 | 豊後の天開図画楼にいる | 政弘「君台観左右帳記」贈られる |
1477(文明9) | 58 | 政弘帰国、応仁の乱終結。大内義興生まれる | |
1478(文明10) | 59 | 政弘が小弐氏を破り、領国の筑前・豊前を奪回 | |
1479(文明11) | 60 | 「益田兼堯像」を描く | 右大臣三条公敦、山口に下向 |
1480(文明12) | 61 | 宗祇、山口を訪れる | |
1481(文明13) | 62 | 美濃へ、万里集九らと交わる | 一条兼良・一休・朝倉孝景死去 |
1486(文明18) | 67 | 山口で「四季山水図」(山水長巻)を描く | 〔1485年、山城の国一揆〕 |
1495(明応4) | 76 | 「破墨山水図」を描き、宗淵に与える | 新撰菟玖波集ができる。政弘死去 |
1496(明応5) | 77 | 「慧可断臂図」「全岩東純像」を描く | 日野富子死去 |
1500(明応9) | 81 | 前将軍義稙、山口に入る。1508年の上洛まで滞在 | |
1506(永正3)? | 87 | 雪舟死去 | 大内義隆生まれる。万里集九「梅花無尽蔵」できる |
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