【この時代、毛利氏は】
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【長州藩では】
領地が周防・長門の二国となった毛利氏は、萩に城を築いて、ここに城下町をつくりました。1653年には、清末藩成立によって、萩本藩と四支藩(岩国藩・長府藩・徳山藩・清末藩)の体制ができました。
長州藩は、その当初から財政が苦しく、藩内の検地をたびたびおこなってきびしく年貢をとりたてるとともに、人づくり物づくりに力をいれ、明倫館を中心に藩校をつくり、防長四白(米・塩・紙・櫨)とよばれる産業をおこしました。
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【長州藩では】
藩の収入を安定させるため、江戸時代を通して、沿岸を埋めたてた大規模な開作が多くおこなわれました。
塩田もたくさんつくられ、西廻り航路ができたのちは、塩は遠く北海道まで運ばれました。
紙と櫨(蝋)の生産も積極的におしすすめられ、これら米・塩・紙・櫨は藩の重要な商品となり、防長四白とよばれています。
また、北浦地方を中心に捕鯨も盛んに行なわれました。
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【長州藩では】
毛利輝元は、雲谷等顔(うんこくとうがん)を御用絵師にとりたて、雪舟の画風をうけつぐ雲谷派の再興を行い、また、幸若舞の本の収集につとめています。このように、江戸時代の前期の文化は武家中心でした。
後期になると、化政文化とよばれる中央の文化が地方に伝播し、長州藩でも、豪農や豪商、町人が文化の担い手となっています。
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