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2025/12/15 【文化財小話】山口市陶地区の須恵器窯跡 ~陶窯跡群~

 今年は平安時代に官営工房として銭貨の鋳造を行っていた、周防鋳銭司(すおうのじゅせんし)の設置1200年を迎え、同史跡の記事がメディアにも取り上げられています。ついつい周防鋳銭司跡に目が行きがちですが、隣の陶地区には、同時代に須恵器(焼き物)を焼いた窯跡が多数存在したことが知られています。
 この窯跡は陶窯跡群(すえかまあとぐん)といい、奈良時代から平安時代にかけて操業していました。陶窯跡群で作られた須恵器は周防鋳銭司跡をはじめ、広い地域に供給されていたと考えられています。これまでに複数回に及ぶ発掘調査が行われていますが、未確認のものを含めると50を超える窯跡が存在するとされており、まだその全貌は分かっていません。
 須恵器は、古墳時代の5世紀前半に朝鮮半島から伝わった土器で、山の斜面を利用してトンネル状に造った登り窯(のぼりがま)で作られました。その形状のため、発掘調査で発見された際には窯の天井や壁が崩落していることが多く、須恵器もそこに埋まった状態で見つかります。
 陶窯跡群では、現在、2か所の窯跡が現地保存されており、見学することができます。以下、その窯跡について紹介します。

[国史跡 陶陶窯跡(すえのすえかまあと)]
 陶陶窯跡は、山口市陶向田の老人ホームの裏山にあり、施設の裏手から延びる山道を少し上ると、屋根と金網で保護された窯跡が見えてきます。
 この窯跡の規模は、全長が約9mで、幅は奥壁のあたりで約1.2m、天井の高さは約1mです。この付近では、窯跡の分布調査などで多くの窯跡や須恵器を焼成した際に生じる灰溜まり(灰原(はいばら))や、失敗品の廃棄の跡(物原(ものはら))が見つかっています。
 登り窯の焚口の部分は崩落、埋没しています。内部の様子は、トンネル状のため確認しづらいですが、登り窯の奥部と、煙出しの穴は明瞭に残っています。天井が崩落せずに残っているものは全国的に見ても珍しいものです。

【文化財小話】山口市陶地区の須恵器窯跡 ~陶窯跡群~

国史跡 陶陶窯跡


【文化財小話】山口市陶地区の須恵器窯跡 ~陶窯跡群~

国史跡 陶陶窯跡 窯跡正面


[県史跡 百谷窯跡(ももだにかまあと)]
 山口市小郡下郷の石鎚山にある窯跡で、陶窯跡群のなかでも最も西側に位置しています。標高75m付近の急斜面に造られており、ハイキングコースさながらの山道を進むと、屋根に覆われた窯跡が見えてきます。
 窯の規模は全長6m、推定の高さは1.5m、床面の傾斜角は平均約30度で、窯の奥はより勾配が急になっています。ここでは、旧小郡町時代に発掘調査が実施されており、窯の内部からは大量の須恵器が出土しました。出土した須恵器と窯の形態から、平安時代の窯と推定されています。
 天井部は完全に崩落してしまい、穴窯の内部が露出している状態ですが、壁面の表土にオレンジ色の焼土が残るなど、須恵器製造の痕跡が良く見てとれる状態です。

【文化財小話】山口市陶地区の須恵器窯跡 ~陶窯跡群~

県史跡 百谷窯跡


【文化財小話】山口市陶地区の須恵器窯跡 ~陶窯跡群~

県史跡 百谷窯跡 窯跡正面


 古代の山口市南部(陶・鋳銭司地区)には、周防鋳銭司跡や東禅寺・黒山遺跡をはじめとする古代日本の一大工業地帯が広がり、陶窯跡群もその1つとして機能していたといえるでしょう。
 陶窯跡群の発掘調査で出土した須恵器は、山口市歴史民俗資料館、小郡文化資料館で展示されていますので、興味のある方は是非ご覧になってください。また、窯跡の保存状態も良いので、野生動物に気をつけながら、陶窯跡群を探訪してみてはいかがでしょう。(KK)



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