一般向け 説明 | 中山忠光は幕末の尊王攘夷派の公家。孝明天皇の侍従として出仕。姉は明治天皇の母。 1863年(文久3)官位を辞退し、当時攘夷勢力の急先鋒であった萩藩に期待して船で長州に下った。萩藩の攘夷戦には、久坂玄瑞の率いる光明寺党の首領格として、下関の外国船砲撃に参加。ついで、武力によって幕府を倒そうとする天誅組の首領に推され、大和で挙兵したが、戦いに敗れて再び長州に逃れた。1864年(元治1)萩藩の恭順派の手によって現在の豊北町の山中で刺客に暗殺され、今の地に葬られた。 墓は1865年(慶応1)に建立。下関市綾羅木の中山忠光を祀った中山神社境内の砂丘の上にあり、「藤原忠光卿神霊」と刻してある。花崗岩で造られ、高さ1.7m、周囲に3.6m四方の玉垣がある。 |