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文化財の概要コンテンツ

文化財名称かのうほうがいひついたえちゃくしょくえま
狩野芳崖筆板絵着色絵馬
指定県指定
市町下関市区分有形文化財時代江戸時代
一般向け
説明
①繋馬図 1面 ②武内宿祢投珠図 1面 ③韓信股潜図 1面 ④予譲裂衣図 1面 ⑤駿牛図 1面 ⑥繋馬図 1面
 
 長府藩主毛利氏の御用絵師であった狩野芳崖が、長府にいた頃描いた神社の奉納絵馬である。後年の近代日本画家芳崖の画業を知る上で貴重な遺作である。各図について説明する。

①繋馬図。下関市忌宮神社蔵、縦109.2cm横82.4cm。綱でつなぎとめられたもどかしさに、苛立つ馬の力強さを、勢いのある筆つかいで表現している。下図も残されている。安政3年(1856)の年号がある。

②武内宿祢投珠図。忌宮神社蔵、縦83.8cm、横58.0cm。武内宿祢は、神功皇后を助けて三韓征伐に赴き、満珠・干珠を海に投じて敵兵を退治したと伝える。裏面に墨書があり、元治元年(1864)の制作とわかる。

③韓信股潜図。忌宮神社蔵、縦64.3cm、横95.1cm。漢の三傑といわれた武将韓信が、若い頃、辱めを受けて股を潜らされたが、これをよく堪え忍び、のちに大成し斉王になったという故事を描いたもの。制作時期は明確ではないが、芳崖狩野と署名があることから、芳崖の号を用い始めた慶応年間(1865~67)頃の作品と考えられる。

④予譲裂衣図。下関市住吉神社所蔵、縦60.9cm、横91.6cm。予譲は晋の大卿知伯の臣、主君の仇敵を襲い、一度は忠義心によって許されるが、再びこれを襲ってついに殺される。この絵はその際、仇の衣を刺して志を遂げたという故事を描いたもの。明治18年(1885)奉納と墨書があるが、特徴のある描線や華麗な彩色などから、③の韓信股潜図と同時代の慶応年間(1865~67)の作品とみられる。

⑤駿牛図。下関市菅原神社の所蔵。縦37.2cm、横57.5cm。牛は天神の神使、手綱を切って走る駿牛の姿が描かれている。裏面の墨書から、長州藩主毛利元周夫人の御付女中12人が、元治元年(1864)に菅原神社へ奉納したものと知れる。

⑥繋馬図。下関市長府黒門町の東西山瀬地区の所蔵。寸法は縦31.2cm、横40.2cm。画面の墨書から、天保13年(1842)、芳崖15歳の時の作品と知れる。6面の絵馬中最も早い時期の作品である。

 狩野芳崖は1828年、長門国長府に生まれた。日本画家。幕末から明治中期に活躍し、伝統的な狩野派に西洋画の技法をとりいれ、近代日本画の創造に貢献した。1877年(明治10)に上京。フェノロサと出会い、影響を受ける。フェノロサらと共に東京美術学校の創設に尽力したが、その開校数ヶ月前の1888年(明治21)11月に没した。
小学生向け
説明
①繋馬図 1面 ②武内宿祢投珠図 1面 ③韓信股潜図 1面 ④予譲裂衣図 1面 ⑤駿牛図 1面 ⑥繋馬図 1面
 
 長府藩主毛利家の御用絵師であった狩野芳崖(かのうほうがい)が、長府にいたころに描いた神社への奉納絵馬です。

①繋馬図(けいまず)。下関市の忌宮神社にあります。たて109cm横82cm。下図も残されています。1856年につくられました。

②武内宿祢投珠図(たけのうちすくねとうしゅず)。忌宮神社にあります。たて84cm、横58cmです。武内宿祢は、満珠(まんじゅ)・干珠(かんじゅ)を海になげいれて敵を退治したと伝えられています。1864年につくられました。

③韓信股潜図(かんしんまたくぐりず)。忌宮神社にあります。たて64cm、横95cm。中国の漢の武将韓信の故事を描いたものです。つくられたのは慶応年間(1865~67)とおもわれます。

④予譲裂衣図(よじょうれついず)。下関市の住吉神社にあります。たて61cm、横92cm。中国の晋の時代の人、予譲の故事を描いたものです。明治18年(1885)に神社に奉納されていますが、③の韓信股潜図と同じころに作られたとおもわれます。

⑤駿牛図(しゅんぎゅうず)。菅原神社所有で住吉神社に寄託されています。たて37cm、横58cm。牛は天神の神使であり、手綱(たづな)を切って走る駿牛(しゅんぎゅう)の姿が描かれています。1864年に菅原神社へ奉納されました。

⑥繋馬図(けいまず)。下関市立美術館に寄託されています。寸法はたて31cm、横40cm。1842年、芳崖が15歳のときの作品です。

 狩野芳崖は1828年、長府に生まれました。幕末から明治時代中期にかけて活躍し、伝統的な狩野派に西洋画の技法をとりいれ、近代日本画の創造に貢献しました。1877年(明治10)に上京し、フェノロサと出会い、東京美術学校の創設に尽力しましたが、その開校数ヶ月前の1888年(明治21)11月に没しました。
画像<狩野芳崖筆板絵着色絵馬>縮小画像(オリジナル画像表示リンク)

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