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文化財の概要コンテンツ

文化財名称にちみんぼうえきせんき・たかすけもんじょ
日明貿易船旗・高洲家文書
指定国指定
市町萩市区分重要文化財時代安土桃山時代
一般向け
説明
 萩藩士高洲(高須)家に伝来した資料群である。高須氏は備後国の在庁官人から国人領主に転化した杉原氏の庶流で、南北朝時代に御調郡高須社(広島県尾道市)の地頭職を獲得した。応仁・文明の乱後、備後国に政治的影響力をもつ但馬守護山名氏の被官として活動した。やがて備後国に勢力を拡大した大内氏に帰属し、大内氏滅亡後は、戦国大名として台頭してきた安芸毛利氏に帰属した。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の敗戦をうけ、毛利氏が長門国萩(山口県萩市)に移封され、高須氏も萩城下に移住した。
 高洲家に伝来した資料群は、日明貿易船旗、および南北朝時代から明治時代までの古文書類よりなる。今回の指定対象は、日明貿易船旗一旒、および南北朝時代から江戸時代初期までの古文書117通とした。日明貿易船旗は、縦長の麻布二枚を左右に継ぎ、大型に仕立てたもので、上端は裏側に折り返して黒麻糸で袋状に縫い、左端は黒麻糸で鹿革製の乳13個を縫いつける。上部から中央部にかけて高須家の家紋である剣三巴紋を大きく墨描し、下部に船主蔡福、立字人李進、同知鉦人王禄の一三名が連署で銘記し、万暦十二年(1584)十月吉日の年紀がある。銘文の大意は、「泉州府晋江県の商船が来年6月に来航する。旗印を照合して一致すれば、入港して貿易する」とのものである。天正十二年小春日(1584年10月)付の蔡福・季(李)進・王禄あて高須元兼覚書案によれば、同年十月に船主蔡福の泉州船二隻が赤間関(あかまがせき)(山□県下関市)に来航しているので、船旗銘の内容は、翌年6月に再来航する際の入港許可の方法をめぐり、赤間関代官高須元兼と約諾したものであることがわかる。
 16世紀後半は、明の貿易商人が東アジアおよび東南アジア各地に積極的に渡航した時期である。明の貿易商人は、海禁対象国である日本に来航し、海賊行為をはたらくこともあった。こうした貿易商人は、研究史上で「後期倭窟」と呼称される。室町幕府が崩壊し、統一政権樹立前の当該期にあって、中央政権が外国の貿易船を管理できる状況ではなく、西日本各地の戦国大名が独自の対応策を講じた。本船旗は、毛利氏領国西端の海上交通の要衝である赤間関において、明から来航する貿易船を管理する入港許可証として機能したものである。日明両国の公的貿易(いわゆる勘合貿易)の途絶後の民間貿易の実態を物的に示す比類ない好資料であるとともに、西日本の戦国大名毛利氏が東アジアの経済変動に的確に対応したことを示す資料であり、対外関係史研究等に重要である。
 高洲家文書117通の形態別の内訳は、一紙物86通、巻子装31通(5巻)である。その発給主体別の内訳は、毛利氏発給文書61通、山名氏発給文書21通、高須氏および木梨氏(杉原氏庶流)発給文書14通、大内氏発給文書4通、足利氏発給文書5通、その他12通である。これらの古文書からは、高須氏が室町時代の中国地方の政治情勢の変化に対応し、山名氏から大内氏へ、さらに大内氏から毛利氏へと帰属した過程を知りうる。とりわけ天正年間(1573~92)に毛利氏の赤間関代官として活動した高須元兼の受給文書群は、赤間関代官が関料徴収、関船管理、町人支配、日明貿易管理を管掌したこと、および毛利氏の公私にわたる唐物(硝石、唐糸等)の需要に対応したことを具体的に示すもので、交通史、流通・貿易史、都市史研究等に重要である。
 以上のように、萩藩士高洲家に伝来した日明貿易船旗および高洲家文書は、毛利氏領国下の赤間関代官の都市・交通支配、貿易管理等のあり方を知るうえで重要な資料である。
小学生向け
説明
 萩藩士・高洲(高須)家に伝わった資料です。高須氏は備後国(びんごのくに。広島県東部)の役人から領主になった杉原氏につながる家系で、南北朝時代に御調郡(みつぎぐん)高須社(広島県尾道市)の地頭職を手に入れました。応仁・文明の乱後、備後国に政治的影響力をもつ但馬(たじま。兵庫県北部)守護・山名氏の家臣として活動しました。やがて備後国に勢力を拡大した大内氏に従い、大内氏が滅んだ後は、戦国大名として勢力を増してきた安芸(あき。広島県西部)毛利氏に従いました。1600年の関ヶ原合戦の敗戦をうけ、毛利氏が長門国萩(山口県萩市)に領地を替え、高須氏も萩城下に移り住みました。
 高洲家に伝わった資料には、日明貿易船旗と古文書があります。日明貿易船旗は、高須家の家紋「剣三巴紋」を大きく墨で描き、その下に船主・蔡福、立字人(契約者)・李進、知鉦人(証人)・王禄の三名の名前と、万暦十二年(1584)十月吉日の日付があり、「泉州府晋江県(中国・福建省泉州市)の貿易船が来年6月に来ます。旗印を見くらべて一致すれば、入港して貿易します」という意味の文が書いてあります。明(中国)・泉州からの船二隻(せき)が赤間関(あかまがせき)(山□県下関市)に来た時、翌年6月に再び来る時の入港許可の方法について、赤間関代官の高須元兼(もとかね)と契約したものです。
 16世紀後半、明の貿易商人は東アジアや東南アジア各地に積極的に船で出かけました。明の貿易商人は、日本に来て、海賊行為をはたらくこともありました。室町幕府がほろび、統一政権がつくられる前は、中央政権が外国の貿易船を管理できる状況ではなく、西日本各地の戦国大名が独自の対応策をとっていました。この船旗は当時、毛利氏が支配する国の西端の、海上交通で重要な赤間関で、明から来る貿易船を管理する入港許可証として使われたものです。当時の貿易の様子がわかる、他に例のない貴重な資料です。
 高洲家文書117通の内訳は、毛利氏が出した文書61通、山名氏が出した文書21通、高須氏と木梨氏が出した文書14通、大内氏が出した文書4通、足利氏が出した文書5通、その他12通です。これらの古文書からは、高須氏が室町時代の中国地方の政治情勢の変化に対応し、山名氏から大内氏へ、さらに大内氏から毛利氏へと従った流れを知ることができます。特に天正年間(1573~92年)に毛利氏の赤間関代官として活動した高須元兼が受け取った文書からは、赤間関代官が関所の通行料のとりたて、関所の船の管理、町人の支配、日明貿易の管理を担当したこと、また毛利氏の輸入品の求めに応じたことがわかります。
画像<日明貿易船旗・高洲家文書>縮小画像(オリジナル画像表示リンク)

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