一般向け 説明 | 本図は、防府市の国分寺が所蔵している。涅槃図(ねはんず)は、釈迦が、クシナガラ城郊外、跋提河(ばつだいが)の畔(ほとり)の沙羅双樹(さらそうじゅ)のもとで80才の生涯を終える場面をあらわしたもので、釈迦を追慕する涅槃会の本尊として利用されることが多い。沙羅双樹の4本が白く枯れ、釈迦をとりまく人物や動物たちが悲しみ泣くようすをあらわす一方で、金色に変化した釈迦の身体を一際大きくしめすことで、肉体は滅んでも仏法は永遠に変わることがないという涅槃の教えを伝えている。 上空からは阿那律(あなりつ:釈迦の従弟)に導かれ、二人の侍女とともに?利天(とうりてん:神々の住む世界の一つ)から飛来する母の摩耶夫人(まやぶにん:釈迦の母)のほか、菩薩・仏弟子・俗人・鬼神などの会衆(説法に集まった人々)52人と、動物・鳥・虫など52匹(羽)が描かれる(鴛鴦(おしどり)のように番(つがい)で描かれるものもあるので種類はもう少し少なくなる)。 本図には「土佐守入道経光筆(とさのかみにゅうどうけいこうひつ)」の落款(らっかん)があり、室町時代の画家・土佐行広(とさゆきひろ)が出家の後、経光と名乗っていた時期に制作されたことが分かる。土佐派は室町時代初期から近代を迎えるまで、日本の伝統的な大和絵の絵画様式を維持してきた流派で、行広は、15世紀初めから半ば頃にかけて室町幕府の絵師として活躍し、足利義満像(京都府・鹿苑寺蔵、重要文化財)や足利義持像(京都府・神護寺蔵、重要文化財)などの足利将軍家の肖像画を手がけたほか、融通念仏縁起絵巻(京都府・清凉寺)などの当時を代表する絵巻の制作にも参加したことが知られ、その伝承作も多数伝わっている。 行広の描く仏画はあまり多くは残存していないが、本図と絵の基本的な図柄や落款の書体が共通し、宝徳3年(1451)という制作年代の明らかな涅槃図(京都・興聖寺蔵、重要美術品)が知られている。国分寺本と興聖寺本とを比較すると、国分寺本の方が画面の長さに比して幅が狭いため、菩薩や仏弟子その他の人物の重なりが多くなっているところもあるが、興聖寺本の短冊形に記された名称から観世音菩薩と思われる菩薩の描かれる位置と顔の向き、興聖寺本に見緊那羅王(きんけんならおう)と記された鬼神が描かれている位置が異なっている他は、ほとんどの参集の位置や姿態が、いずれも一致している。また、画面下方の動物も、一部を除いて描かれる位置や姿態までもが一致している。したがって、両者は、晩年の行広が同じ粉本にしたがって制作したことが考えられる。 現在のところ、京都周辺以外で行広の作品が確認されているのは本図のみであり、その地方への伝播が確認される上でも、たいへん貴重な作品である。 なお、本図裏面に「涅槃像 延宝四□三月八日□□□修補之 周防州浄瑠璃山金光明四天王護国之寺住物英意」の墨書があり、延宝4年(1676)に周防国分寺住職英意の代に修理されたことが分かる。また、「周防国分寺記録 正徳四年」(県指定有形文化財 周防国分寺文書)には、「一 涅槃像 一幅 右土佐守入道経光筆之事」と、本図のことが記載されている。 国分寺は、奈良時代に聖武天皇の勅願により全国に建立された官寺で、今では他の国分寺の多くが姿をとどめない状況の中で、防府市の国分寺(周防国分寺)は、現在でもほぼ境内の旧規模をとどめている。山号は浄瑠璃山、本尊は薬師如来。現在の金堂は安永9年(1780)に萩藩主毛利重就により再建されたもので、国指定重要文化財。その他にも木造日光菩薩立像、月光菩薩立像など、多数の文化財を所蔵している。また、境内地も国指定史跡となっている。 |