一般向け 説明 | 萩焼は、萩藩主毛利氏の御用窯として現萩市松本に開窯されたものを起源として、その技術は今日まで連綿として受け継がれている。とりわけ茶陶界での評価は「一楽二萩三唐津」といわれるように高いものがある。 新庄貞嗣は、明暦3年(1657)に大津郡深川村三ノ瀬(そうのせ)の焼物所が新設されたとき、藩命で惣都合〆を任じられた山村平四郎光俊(寛永15年(1638)~宝永6年(1709))にしたがって萩から移住した弟子筋の一人、赤川助右衛門の家系(明治になって新庄と改姓)に生まれ育った。 昭和52年(1977)に東京藝術大学大学院彫刻専攻を修了した後、京都市工業試験場で研修して同53年に帰郷した。同58年(1983)には日本工芸会正会員となった。当初は、圧倒的な量塊感を追求した陶筥や、空間表現を器物の造形に取り込んだ台鉢など、彫刻的視点に立った大型作品を集中して制作していたが、平成以降は深川焼の伝統性を喚起する茶陶の制作を研究し、ことに簡潔な輪形の茶碗に優れた作例が多く、茶人のみならず陶芸愛好家や研究者の声価も高い。 |