一般向け 説明 | 幕末、長門国にあった長府藩によって築かれた藩主居館跡である。下関市の東部、三方を山に囲まれ南に開けた扇状地の奥に立地する。 幕末の開国に伴う攘夷の高まりの中、萩藩は文久3年(1863)5~6月、下関海峡を航行する外国船を攻撃した。本藩に従い攘夷戦の準備を進めていた支藩の長府藩は、海岸沿いの長府から内陸部の勝山に藩主居館を移転することとし、同年6月に造営を開始、緊迫した状況下で工事を急ぎ、11月、城郭としての規模・構造を有する新居館を完成させた。以後、勝山御殿は幕末の動乱の中で長府藩の拠点として機能した。 下関市教育委員会による発掘調査等により判明した勝山御殿跡の構造は、南北に直線状に並ぶ連郭式をとり、南側の最前面に大手口を有する三の丸、その背後に弧状に配列する城壁に囲まれた二の丸、さらにその背後に配置された本丸からなり、城壁はいずれも石垣造りである。また、幕末期の台場と同様に、砲撃戦を意識して城塁が土塁と石垣で構成される点が特徴的である。従来の近世城郭と台場の両者の構造を取り入れて築造した近世最終期の城郭であり、幕末期の緊迫した軍事状況と当時の築城技術を知る上で貴重である。 |