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文化財の概要コンテンツ

文化財名称もくぞうしょうそうざぞう(でんえじわじょう)
木造聖僧坐像(伝恵慈和尚)
指定県指定
市町平生町区分有形文化財時代平安時代
一般向け
説明
 般若寺本堂の須弥壇背後の位牌堂に安置される像高70.7㎝、等身より少し小さい老貌の僧形像。ヒノキ材か、一木造、現状素地に漆塗り、彫眼。
 長い眉と落ちくぼんだ目、深い皺をもつ痩身(そうしん)の年老いた人物の姿が、的確な彫技によってあらわされる。このような痩身老貌の僧形像は、ある特定の僧侶の姿を写した肖像ではなく、僧侶の手本として、また伽藍を守護する者として信仰された聖僧像として造られたものである。聖僧像は奈良時代にすでに寺院に置かれていたことが知られ、奈良、平安時代の遺品も現存する。
 本像には制作時を示す銘文などはないが、作風、および像の全体を1材から木取りする構造上の特色から平安時代の作であることが明らかである。その丸みのある頭と細長い顔、なで肩でやや薄い胸、低い膝をあらわした穏和な姿は、聖僧像ではないが永祚元年(983)頃の作である京都府遍照寺木造不動明王坐像、長保元年(999)作の兵庫県弥勒寺木造弥勒仏坐像などと共通し、本像はそれらよりもさらに穏やかさが進んだ作風を示すことから、11世紀前半頃に制作された可能性が高いと思われる。作者は不明ではあるが、畿内の優れた仏師の手によるものと考えられる。
 令和3年(2021)には、近世の後補と見られる両手首以下と、表面の彩色などを除去し、両手首以下の補作、朽損した木質部の硬化などを主とする保存修理が行われた。燻蒸、虫穴の補修方法など文化財の保存修理として最善のものであったとはいえないが、これにより、造立時の姿がある程度回復され、損傷が甚大であった像の状態も大きく改善した。なお、現在の台座はこの時に作られたものである。
 神峯山般若寺は今日は真言宗御室派に属し、「用明元丙午暦建立、開山高麗恵慈(※1)和尚、用明天皇勅願所也」(山口県文書館編『防長風土注進案 6 上関宰判 下』(1983年、マツノ書店))という熊毛郡平生町宇佐木に所在する古刹である。中世以降は大内氏、毛利氏の崇敬が厚く、古文書や寺宝を多数有したが、享保4年(1719)の出火でそれらのほとんどを焼失したという(平生町編『平生町史』(1978年、平生町役場))。火災後の寛保元年(1741)に般若寺第71世宥智が記した「当山由来□」が伝存し、その中に「当山開基恵慈和尚御影自作」があることが記されている。「自作」でないことは明らかであるが、これが本像を指すと考えられる。なお、寺では現在も本像を「恵慈和尚」と呼称している。そのために本件の名称には、「伝恵慈和尚」の呼称を併記する。
 このように本像は平安時代後期11世紀前半頃の制作優秀な木彫像であるとともに、全国的に作例がかならずしも多くない聖僧像の貴重な遺品として価値が高い。本県においては国または県指定文化財としての聖僧像はこれまでに存在しない。
 また、当初は聖僧像として造られた本像は、近世には「当山開基恵慈和尚御影」と認識されるに及んでいる。このことは般若寺を中心とする本地域の文化と信仰の歴史を考える上でも重要な価値を有するものと考えられる。

※恵慈:7世紀初めの高句麗の僧。聖徳太子は恵慈を師として経論を学んだ。推古天皇23年(615)11月に本国に還ったが、同30年(622)2月22日に太子が没すると、これを聞いて大いに悲しみ、来年2月22日に自分も死に、浄土において太子に逢おうと誓ってその言の通りに没したという(国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 2』(吉川弘文館、1980年)の「恵慈」(大野達之助執筆)から要約)。
小学生向け
説明
 平生町宇佐木の般若寺(はんにゃじ)にある聖僧像(僧侶の手本として、お寺を守る者として信仰された像)です。大きさは70.7cm、ヒノキと考えられる1本の木を彫って造られています。平安時代後期11世紀前半ごろに、丁寧に作られた美しい像で貴重です。
画像<木造聖僧坐像(伝恵慈和尚)>縮小画像(オリジナル画像表示リンク)

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