一般向け 説明 | 武久家は、鎌倉時代、長門国府の役人として中心的な位置を占めるとともに、長門守護代、長門守護職にも任じられた。南北朝時代の初めに武久氏を称し、長門の有力武士になったが、室町時代になると次第に武士的性格を失い、長門国一宮・二宮の祭事や国衙内の諸職を司るようになった。その居宅は近世には忌宮神社北側にあった。 「武久家文書」は、武久家に伝えられた鎌倉初期から明治初年までの文書 256点。中核をなすのは中世の文書であり、内乱期の防長領主層の動向を理解するうえで重要視されている。 「紙本着色武久季依像」は、武久氏21代季邦の長男で詩をはじめ多才をふるいながら早世した季依の肖像画。武久家一連の史料として加えられた。 |