名称関連 | 文化財名称 | 芦河内薬師堂 |
要録名称 | 芦河内薬師堂 付 敷地 仏像及び神像 厨子 由諸札 なもうで踊道具
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指定関連 | 指定区分・種類 | 有形民俗文化財 |
指定年月日 | 昭和62年(1987)10月27日(山口県教育委員会告示 第5号) | |
所在地関連 | 所在地 | 宇部市大字芦河内775番地 |
所有者関連 | 所有者 |
(芦河内薬師堂) 一棟
(敷地) 二三.三九㎡
(仏像及び神像) 三三躯
(厨子) 一基
(由諸札) 三枚
(なもうで踊道具) 一括
(資料4・由緒札墨書銘(1)~(3)参照)
県内には、辻堂、休み堂、地蔵堂、観音堂、阿弥陀堂、薬師堂などと呼ばれる簡素なお堂が広く分布している。これらは、地域の社交や親睦の場として利用され、信仰の場として様々なお祭りや盆供養が行われ、また、旅人へのお茶のもてなしの場とされた。
これらお堂とその習俗は、地域住民のきずなや郷土意識を支える大きな要素であるが、昨今の社会の変化に伴い急速に廃れつつある。
芦河内薬師堂は、県内に残存するお堂の中でも最も秀麗な景観を持ち、しかも、古い形態を保っている。
薬師堂の由来は不明であるが、由緒札(1)や部落に伝わる緑起(長福寺縁起)によると、阿弥陀如来・薬師如来の両尊仏が往古吉部堂ケ原から当邑に飛び来たり、応永元年(1394)当所にお堂を建立してこれを安置し、応永25年(1418)に再建したと言う。堂に安置されている阿弥陀如来・薬師如来の両尊の製作時期の所見からも、薬師堂の起源が、室町時代に遡る可能性は十分考えられる。
『防長寺社由来』(山口県文書館)によると、江戸時代には、お堂は浄覚寺(芦河内)の抱えで御除田1反8歩(堂田と呼ばれる田あり)があったと言い、往古は長福寺と号していたことを付記している。また、由緒札(1)によると、寛永14年(1637)の大干ばつ時には地区民集まって雨乞いや虫除けの祈願を行い、なもうで踊りが奉納されている。
現存する薬師堂の建築時期についても不明であるが、由緒札の内、(2)の墨書に「奉再建」云々・「元禄三」云々が見え、また、(3)の墨書から元禄6年(1693)に阿弥陀如来・薬師如来両尊の修理が行われたと見られ(木造薬師如来立像の台座裏の墨書にも同様な内容が記されている)、この時期にお堂及び仏像に大きな修理の手が加えられた可能性が考えられる。
お堂に関わる習俗としては、由緒札(1)に見るごとく、雨乞いや虫除きのため「なもうで踊り」(念仏踊り)奉納を中心とする祭が行われていた。また、堂内には十王像や大師像も安置されており、それぞれの講組織での祭も行われていたと思われる。地元の話では、昭和8年頃までお接待があったと言う。
堂の管理は、古くは鳥明(とりみょう、屋号)の岩本家が「お鉢田」を持って当っていたと言われており、また、堂守もいたと伝えられる。
〔由緒札墨書銘〕
/(1)
/(表)「 抑八月早米成就之上神酒相備村中念仏踊仕来者也 「寺号
/ 長福寺」
(寛永14年、1637) / 寛永十四年比六十余州炎天時節於当薬師堂雨乞立願并虫除五穀成為願解既当年念仏踊六月上句奇瑞□
(安永8年、1779) / 右本文宗(棟)札余及破損当安永八巳(己)亥六月写之置者也到末
/ 世依見明無覚束如件」
/(裏)「 殊者当伽藍安穏興隆仏法別者当村中
/ 家内安全五穀成就之処 大小檀那
(文明11年、1479)/ 奉造立薬師堂 文明十一年巳寅(己亥)正月廿六年 大工藤原氏
(応永25年、1418) / 応永二十五年戊戌十月廿二日
/ 右者両尊吉部堂ヶ原落去ノ時当邑江既飛仏之 各々敬白
(応永元年、1354)/ 応永元年初面建立共後当所安置之御願円満処 」
/(2)
(応永6年、1359) / (表)「 始而建□応永六〔 〕
/国家豊饒風雨〔 〕(順時カ)〔 〕所 敬白
(元禄3年、1690)/ 元禄三〔 〕 」
/(裏)「
奉再建〔 〕年六月 」
/(3)
/(表」「 〔 〕
/奉再興阿弥陀如来薬師如来両尊〔 〕
/ 仏師
/三月十九日 〔 〕
/ 〔 〕 」
(元禄6年)/(裏)「元禄六酉六月吉祥日 奉再色
/ 本□□ 堂守岩木五郎市
/ 当屋深井権佐衛門
(応永元年)/「応永元年ヨリ 当屋篠原佐助
(安永8年)/安永八亥歳迄 年寄畦頭 武安吉兵衛
/ 凡三百九十三年ニ成ル」
□□篠原伝右衛門
/(参考)木造薬師如来立像・八角形台座裏墨書銘
/「 増田宗運弟子
/ 大仏師
/ 京 安田鶴□
/ 作
(元禄6年)/元禄六年
/ 酉ノ
/ 六月丗日 」
【構造、形状、その他の特徴】
(1)薬師堂 (資料1・
資料2参照)
美東町と楠町船木を結ぶ県道30号線から芦河内部落へ入る枝道を進むと、周囲を山で囲まれた平地に民家が点在してくる。薬師堂はその集落のほぼ中央、旧道に沿った位置に建てられている。堂前の旧道は、北にたどると吉部へ、東へ折れて野地に通じており、古くは人通りの多い道だったという。
お堂は、113.39㎡の敷地の西寄りに建っており、前面は広場となっている。広場の一角には杉の古木があり、その側に地蔵(1体)や板碑(4基)が並んでいる。
お堂の構造、形式、寸法は下記のとおりである。
(平面) 正面3間、側面2間+小間(仏壇)
(規模) 正面439.5㎝、側面488.0㎝
(外観) 茅葺、寄棟造、正面3面吹放し、背面小間板壁
(基壇) 正面・側面 玉石 一級、背面 雨落ち溝のみ
(磁石) 自然石
(柱) 角柱 面取
(組物) 仏壇前面脇柱上のみ平三斗拳鼻付き、側柱上組物なく柱天上桁乗せ
(指物<無目>) 丈19.1㎝×幅10.4㎝、内法高171.8㎝
(天上) 棹縁(横方向)
(床) 側柱間に框入れ床板張り
(壁) 指物上 小壁 及び背面仏壇回り竪板壁
(彩色) なし
(2) 附指定
①敷地
面積113.39㎡(公薄面積)の敷地で、地目は宅地である。敷地の北西側半分は石垣をしつらえて一段高くなっており、ここに薬師堂が建っている。また、南東側は薬師堂の前庭となっており、祭りの日にはここで、なもうで踊りが舞われたという。
②仏像及び神像
堂の奥壁側にしつらえられた小間(仏壇、須弥壇)の中に、仏像や神像など33躯が安置されている。その内訳は以下の通りである。
木造阿弥陀如来立像(像高58.6㎝) 1躯
木造薬師如立像(像高55.5㎝) 1躯
木造毘沙門天立像(像高40.8㎝) 1躯
木造菩薩形立像(像高40.0㎝) 1躯
木造十二神将立像(像高9.5cm~27.2㎝) 10躯
木造女神立像(像高24.0㎝) 1躯
木造地蔵菩薩坐像(像高23.3cm) 1躯
木造十王坐像(像高18.7~17.8㎝) 10躯
木造倶生神半跏像(像高阿形19.4㎝) 2躯
(像高吽形18.4㎝) 19躯
木造奪衣姿坐像(像高17.8㎝) 1躯
木造男神坐像(像高13.9㎝) 1躯
木造地蔵菩薩立像(像高大21.3cm) 3躯
(像高中17.4㎝) 2躯
(像高小16.5cm) 2躯
材はいずれも雑木の堅木(ケヤキか)を使用している。
製作の時期は、木造阿弥陀如来立像、木造薬師如来立像、木造毘沙門天立像の3躯が室町時代、他が江戸時代である。
③厨子 (資料3参照)
堂奥壁側の小間(仏壇、須弥壇)の中央にあり、中に木造阿弥陀如来立像と木造薬師如来立像を安置している。
構造、形式、寸法は下記の通りである。
宮殿(厨子)1基、全高179㎝、全幅118㎝、奥行75㎝ 一間入母屋造妻入り・千鳥破風・軒唐破風付き
台座 下框・束・上框いずれも欠き面取り 正面羽目 挌狭間付き
柱 円柱、頭貫虹梁形 木鼻付き 正面のみ柱頭と貫間持送り板付き、柱頭台輪をめぐらす。
組物 出組・捨て斗付き 隅二連
軒 二軒角繁垂木(直 面取りせず)
中備 本蟇股(斗なし)
軒唐破風妻飾 虹梁大瓶束、千鳥破風 妻飾り及び妻板欠ける。天井なし
彩色 朱及び黒漆 柱は金彩痕跡あり
④由諸札 3枚
形状/法量(縦、横、厚㎝)/材質/備考
1/平頭形/82.5、 17.3、2.4/タブ/ダイガンナ仕上げ、釘穴なし
2/平頭形/103.5、13.3、3.1/シイ/ヤリガンナ仕上げ、釘穴なし
3/平頭形/58.5、12.7、1.6/スギ/ダイガンナ仕上げ、釘穴なし
⑤なもうで踊り道具
お堂の前の広場で、昭和10年前後まで、なもうで踊りが奉納されていた。これは雨乞い或いは虫取りという稲作儀礼に関わる年中行事であった。残存する道具は以下のとおり。
道具名/数/寸法㎝/備考
太鼓/2/径35、厚19/明治31年に新調
バチ/3/長23~27、径3~4/木製
鉦叩き/8/長30、幅13/墨書に「仕木」
笠飾/6/高25、幅27/骨は竹、龍の絵
軸/9/径9、高4.5/木製
大団扇/1/高77、幅40/竹製の骨のみ
(県指定以前の経過)
昭和60年度 「周防・長門の辻堂の習俗」・国の無形民俗文化財記録作成
県の未指定文化財総合調査
昭和60~61年度 「周防・長門の辻堂の習俗」・県の未指定文化財調査
(未指定文化財総合調査報告書第5集「つじどう 周防・長門の辻堂の習俗」1987年3月刊)
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