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文化財要録コンテンツ

名称関連文化財名称別府岩戸神楽舞
要録名称別府岩戸神楽舞
指定関連指定区分・種類県指定無形民俗文化財
指定年月日昭和61年4月8日(山口県教育委員会告示第4号)
所在地関連所在地
所有者関連所有者

保持者関連
保持者
別府岩戸神楽舞保存会

文化財詳細
時期及び場所

毎年11月9日(壬生神社秋季例祭の前夜祭)

壬生神社(主として拝殿を利用、美祢市秋芳町別府)



由来及び沿革

【技芸の由来又は沿革】

(1) 別府の池について

 近世には美祢宰判嘉万村に属す。嘉万村は、現在の美祢市秋芳町の北西部に位置し、特別天然記念物秋吉台の北と西にあたる。

 四方を山に囲まれた盆地で、北から八代・本郷・別府に3分され、厚東川が南流するが、別府の地は灌漑水系を別にする。別府の地名は、応永3年(1396)の下嘉万八幡宮の大般若経の奥書にみえる。また、「注進案」には別府長者が当地開作の折り、夢に現れた仙人が鎌を2つ授けたとあり、嘉万の地名由来としている。

(2) 壬生神社について

 神楽舞の奉納される壬生神社は、城山(石楠山)の南麗、別府流田にある。壬生神社の初見は、「文徳実録」仁寿元年(851)に見られ、もとは壬生大明神といわれていた。

 「注進案」によれば、壬生大明神は神功皇后のこととあり、現在の祭神は、高おかみ神・神功皇后・仁徳天皇の3神を祀る。

 明治4年に壬生大明神を現社号に改称した。旧郷社。

 社伝によれば、大同3年(808)豊浦ニ宮(現下関市の忌宮神社)から勧請したと伝え、永暦年中(1160~61)平重盛により再建され、美祢郡の総鎮守になったといわれる。

 中世には、厚東・大内両氏の争奪の地に、また南北朝争乱時の戦場となり、その際社殿や社宝も兵火にあったと思われる。

 その後も嘉万ノ郷の氏神であったが、嘉万に日吉神社が祀られた後は氏子の動静にも変化をきたし、現在は堅田・水上・前水上・湯之上・芹田・江原地区の氏神となっている。

 また、神仏習合の時代には社坊6ケ寺をもち、全て真言宗であったが、近世には既に廃寺になっていた。現在社坊跡を示す地名が若干残る。

 当社に関する祭事は、「注進案」、「寺社由来」に記されており、それによれば春秋の祭礼と12月の御忌祭があるが、神楽についての記載は見当たらない。

(3) 神楽舞について

 「防長神楽の研究」の著者御園生翁甫氏によれば、百姓神楽の起源として、次の6つをあげている。

①悪疫流行による死者の続出を避けようとするもの

②天候不順による百姓の餓死を防ぎ、稲作の無事息災や風雨順時を祈願したもの

③雨乞

④怨霊鎮めのため

⑤祖先崇拝のため

⑥他所からの伝授

 県内の神楽は、多少なりともこの中のどれかに起源をもち、またそれに適合するような言い伝えをもっており、特に①や②に起源をもつものが多いといわれている。

しかし、壬生神社神楽舞には不思議にこうした伝承をもたず、無意識のうちに300年間にわたって欠くことなく続けられてきたといわれ、その意味において当神楽がこの地に根ざした神楽であり、内容においても変容の少ない古い形態を保っていることが予想される。

 神楽の系譜をたどることは、資料の希薄さから大変困難であるが、「防長神楽の研究」を手懸りに、美祢・秋芳周辺の神楽の系統を探ってみると次の様なことが考えられる。

(ア) 山伏系の神楽

 まず、長門地方の神楽の源流を求めようとするとき、真言・天台両系の山伏(修験者)達の果たした役割に注目することが出来る。

 英彦山の資料によれば、近世後期において防長の檀那等級は、長門の西半郡が7等級で、長門の東半部と周防部が8等級であり、長門地区は回国修行の山伏と土着していた山伏との勢力範囲が交錯するところといわれ、山伏達にとって良好な地とは言えなかった。

 しかし、民間信仰において、火伏せや悪霊祓い、雨乞いなどに要請される機会が多かったことが、今に残る伝承や遺跡からうかがえる。

 山伏達によって行われた神楽を、一般的に山伏神楽というのが、修験道の全国伝播に伴って各地に伝えられ、その形態においても様々に変化しているが、その根底には、修験道の陰陽・五行思想を背景にした呪術的要素が強く流れている。

 例えば、方角としての四方(東西南北)と中央を重んじる五方の舞い方や、はげしく足を踏み(反閇)、悪霊を地下に抑え鎮めてしまう動作などに見られる。

 通常山伏神楽という場合、東北地方において冬の農閑期を利用し、山伏達の集団が農家の1間を舞台に夜通し演ずるもので、その内容においても猿楽に共通する題材をもち、しかも能楽の大成より以前の形態を持つものを指す。

 しかし、防長においては単に山伏達が伝えたという意味での山伏神楽として考えてみる。

 特に、長門地方において山伏達が集団で行動し、神楽を舞ったことについての確証がなく、その意味では山伏系の神楽と称した方が適切であるかもしれない。

(イ) 花尾山奉納の神楽

 美祢地域における修験道の1中心地は、美祢市・長門市・三隅町(大津郡)・秋芳町(美祢郡)などにまたがる花尾山(標高669.1m)である。

 この地域の神楽の原点を、花尾山にみようとする時、「注進案」の前大津宰判三隅村大権現宮の項に記載されている「重修華尾山大権現祠記」<資料1>が注目される。

 これによれば、花尾山に弘法堂を建立せんとして地ならしをしたところ、多くの神物が出土して昔の社堂祭祠の跡であることがわかったため、社殿再建の案がもちあがり、社殿造営費は藩が負担し、維持費や修繕科は地下負担と決定したとある。これが寛文3年(1663)のことで、さらにこの社殿落成後の寛文6年(1666)神楽を奉納することになり、近隣の社人12人による奉納神楽が3日2夜にわたって執行され、その時の曲目、演者名等が全て収録されている。 

 曲目は18曲で次のとおりである。

 所平・二番舞・三番舞・四天・紫入内・御神・尉・夷巫・手力・御神勧請・御神舞・太郎治郎三郎四郎五郎六郎・門禅・姫宮・鬼之舞・法主(王力)・将軍

 御園生氏によれば、この曲目から山伏神楽であることがわかり、現在の花尾山周辺の神楽の曲目の中に取り入れられているといわれる。

 ただし、曲目の内容について一部不明であり、山伏神楽の特色といわれる「山」と「火」の舞が、直接曲名に表記されていない点から再考の余地はあるが、この花尾山奉納神楽の影響を受けているといわれる滝坂神楽舞(三隅町)<資料2>や木間の神代の舞(萩市)の曲名には「山」や「火」に関する舞があり、山伏系の神楽として考えてもよいと思われる。

 また、舞方に参加した12人の社人達は、花尾山周辺の神職達と思われ、各々現在の綾木八幡宮(美東町~岡崎)、三隅町八幡宮(三隅町~古屋)、秋吉八幡宮(秋芳町~吉屋)、壬生神社(田村)の宮司の祖と思われる。

 中津・城村・宗久については不明である。

 このことから花尾山奉納神楽は、社人神楽(神職身分の者のみにより執行される神楽)であったことがわかり、しかも大権現宮に関わりのあることから、修験道との何らかの関係が推測される。

 社人神楽は、数社の社人がグル-プを作り、各々の神社の祭礼に順次神楽を奉納していったものであり、専門的な神事としての性格の強い神楽であった。

(ウ) 神楽の変遷

 農耕を中心とした社会が変化してくると、村落における産業構造が変わり、人々の意識も変化してくると、神楽に対する考え方も、神事としてのみでなく、観賞の対象として、さらには娯楽の対象として考えるようになってきた。

 この背景には、社人のみによる神楽の維持が困難になり、農民を指導して神楽に参加させる(御園生氏はこのような神楽を「太夫舞」と称す)ようになったことも一因と思われる。

 時には興味本位の低俗な内容のものまで現れてくるが、このことには近世における仏教の浸透(特に真言系)が農民層において激しく、神社側が人を留めるために迎合せざるを得ないという理由があったとも考えられる。

 こうした現象に対して一つの転機になったのが、文化年間(1804~1818)に京都の吉田司家から出された「神楽差止令」<資料3>である。このことは「注進案」に記載があり、また高津ウ山の「封事謹土」<資料4>の中にも記されており、神楽がその内容において神をないがしろにするものがあり、異風の舞としての神楽は禁止するということである。

 ウ山の同書には、この差止令により地方の小神社は大いなる影響を受け、その零落甚しきを憂い、藩に事情調査を依頼している。

 この差止令に対して、壬生神社神楽舞がどう対応したのかは不明であるが、地元の言い伝えでは300年間欠かすことなく続けてきたといわれているので何らかの形で残されたことも想像される。防長においてはさらに、天保14年(1843)の淫祠解除により、2万余りの社祠が解除され、寺社の整理が行われるが、こうした中で神楽を維持していくことの困難さは十分予想され、残った神楽についても、曲目の整理や、純粋な神事としての鎮魂行事であることを強くうち出していったと考えられる。

 明治2年(1869)には、神仏習合の禁止により社人神楽が禁止され、神楽を演じる主体が神職以外の者に移り今日に至っている。

 このことは神楽に再び、演劇的・娯楽的要素をもたらすことになり、花尾山周辺の神楽の中にも他系統、特に石州系の神楽を取り入れるものが生じてくる。

 具体的には、曲目の中に「帯の舞」や「大蛇の舞(綱切)」を取り入れているもので、木間・遠谷(川上村)・滝坂・兎渡谷(三隅町)等の神楽である。

 他方、山伏系神楽の形態を守ってきたと思われるものに、壬生神社岩戸神楽舞・真長田八幡宮の天岩戸神楽(美東町)・ニ道祖の岩戸神楽舞(宇部市)・大日岩戸舞(美祢市)等があり、何れも曲目において12曲に整理され、神事舞の性格を強く残している。ただ12曲に整理されていることについては、この段階で備後の十二神祇系の神楽<資料5>の影響を受けていると考えられる。

<資料1> 「重修華尾山大権現祠記」 『防長風土注進案』前大津宰判三隅村(51~58頁)(略)

<資料2> 滝坂神楽舞の曲目 『山口県の民俗芸能』(119~120頁)(略)

<資料3> 吉田司家からの差止令について 『防長風土注進案』前大津宰判殿敷村(439頁、……先年は神事舞等御座候処追々風俗悪敷文化年中吉田家より被差止候、……)

 『防長風土注進案』徳地宰判柚子村  (205頁、……十二神楽を壹神楽宛年々執行しける所、文化年中吉田殿より停止せられ、……)

<資料4> 「封事謹上」(高津ウ山著)  (高津ウ山刊行会、昭和42年発行、著者石部忠夫) (解説72~73頁) 

<資料5> 十二神祇系神楽について  『神楽と神かがり』(牛尾三千夫著、昭和60年発行) (378頁、十二神祇系の項)



内容

(1) 時期について

 伝承によれば300年間続けられてきたといわれ、記録としては大正元年からのものが残り、以後は欠かすことなく毎年続けられている。現在は11月9日と10日の壬生神社秋季例祭の中で、前夜祭の9日の晩に、7時頃から12時頃までの約5時間演じられている。

(2) 場所について

 壬生神社拝殿で舞われる。舞う範囲は畳2枚分の狭い範囲で、これはその周囲が囃子方や観客の場となったからである。

(3) 演者について

 かつては壬生神社の氏子によって演じられていたが、昭和37年に流田・桧皮地区の氏子達により保存会が結成され、以後は会員によって執行されている。

(4) 楽器について

 篠笛、太鼓、合せ鉦の3種類。奏法については聴き伝えで伝授されてきたものである。

(5) 曲目について

 現在曲目としては13曲であるが、尉の舞と手力男命は、岩戸開きの曲としてまとめられるので、整理すれば12曲目となり、十二神祇系の神楽となる。   

 各々の曲目の特徴をあげる。

 

① 天蓋操作

 神降しの儀式で、舞場を清める意を持つ。引手は中年以上の熟練者であることと、太鼓の音に合わせてリズミックに操作することが要求される。

② 一番神楽・二番神楽

 若者の奉仕する神事舞。一番神楽で錫杖を胸にあて、足を蹴るようにして進む所作は古い舞いの一つと伝える。二番神楽のもどきは本神楽の中に笑いの要素のあることを示すものであるが、男根であったと思われるものが、ひょうたんに変っているなど品の良いものになっている。

③ 鈿女

 唯一の女性神で、時間にして2分ばかりの舞。

④ 花さんじ・荒神

 荒神は花さんじの逆舞といわれ、両舞で約50分の儀式舞である。優雅な舞であるだけに舞手の体型や演技力が要求される。

 花さんじは、花散らしの意と思われるが、当曲目の中には花に関連するものはない。ただ天蓋操作の時、天蓋の上にのせて切紙が、紙吹雪となって舞場に散るのであるが、このことに関連があるとも思われる。

⑤ 所ならし

 天神7代、地神5代の言立がある。

⑥ 執物舞

 鉾の舞、弓の舞、両剣の舞で壮年者の奉仕といわれる。特に弓の舞は約30分間も続く体力を消耗するものであり、無我の境地に陥って牛尾氏のいわれる、神がかり(「地元では「オウリがついた」という)があったことも考えられる。

両剣の舞で、剣先を上方と水平方向に向けるのは、修験山状の呪法に関連していることが考えられる。

⑦ 尉の舞 

 岩戸探しの舞。高齢者で尊敬されている者が奉仕する。象徴的な舞で、品格を要求され、技術的にも熟練度の高い舞い方になる。 

⑧ 手力男命

 激しい所作が必要とされる。舞の途中で観客の中の子供を抱き上げて激しく回ることがあるが、抱かれた子供は病気をしないといわれる。

 ⑦と⑧は、岩戸開きの舞としてセットになるもので、その静と動の組合せや、他の岩戸開きの舞によく見られる日神大神が登場しないで象徴的に表現しているところなど、この岩戸神楽舞の特徴を代表している。

〔基本となる舞い方〕太鼓の調子に合わせて舞う

ア  反閇 つま先を立て1歩踏み出し、、腰をかがめ、後退しながら足の前で錫杖を鳴らす動作

イ  舞込み 道行きから次の動作に移るため中央に向って前進、一回転して後退する切変え動作

ウ  舞込みの反閇 舞込みと反閇を組み合わせたもの

エ 返りさんじ 4人組み又は2人組みの者が、向い合って石前から後方にそり返り、反閇する動作

オ 切舞 採物を顔の前にかざす動作を反復しながら、回転する動作

カ  ギリ舞 採物を顔の前にかざしたまま回転する動作

キ  道行き 太鼓の調子に合わせて歩く動作

ク  しやくり 採物をもった手首を左右に振り急激に返す動作

ケ  幣振り 幣をもった左手を目の前で素早く振り、その後、左上方にのばす動作

コ 飛び込み 弓の上から下へ扇であおぐ動動作をして、弓の絃を広げて、その中に飛び込み、その後すぐ飛戻しをし、弓の弦を頭につけて弓を張り、扇を頭の後にかざしてヂラ舞をする。

サ じら舞 同じ場所で地団太を踏むように、激しく回転しながら舞うこと。

シ 舞戻し 一定の方向に舞った後、その反対の方向に舞い戻すこと。

ス 折腰 4人又は2人の者が、向かい合って、右手の採物を顔の前にかざすと同時に右ひざを折る動作

セ 横らい 左右にすばやく移動し、採物を回転させながら進行方向へ突きあげる動作

ソ 縦らい 腰のところで採物を回転させながら前に進み、前方上方に両手を突き上げ、後方に下る時は両手を回転させながら腰の所へ戻す動作

〔曲目〕

ア 天藍引き  (1人)  (5分) 

 風折鳥帽子・黄の狩衣・白の袴・白足袋(以下足袋は省略)

 太鼓に合わせて前後・左右・斜めに天蓋をそれぞれ8回操る。

イ 天蓋下  (4人)  (4部)

 衣装は(ア)と同じ。幣をつけた榊を三宝にのせたものを左手に持ち、右に錫杖を持ち、道行き1周ごとに次の神楽歌を歌う。

 1. 「榊葉の うわとしたえに してあれば 

天地分けて 神ぞまします 神ぞまします」

 2 .「つうほうに やつかほう み床しきそうの

 拍手を 神は聞きませ

うずのおうみき うずのおうみき」

ウ 一番神楽 (1人)  (7分)

 衣装は(ア)と同じ。左手に扇、右手に錫杖を持つ。道行きをし、舞込み反閇を四角、道行きをして舞込みの後、ぎり舞を行う。(この場合、左手の採物を頭上にのばし、右手は脇に、舞戻しは左手を脇に、右手は同じ)天蓋下の1. の神楽歌を歌った後、同じ舞を繰り返し、天蓋下の2. の神楽歌及び同じ舞をして、次の神楽歌3. を歌い、道行きの後退場。

 3. とうぼうに みかのはら 天のたんざき みつなれば

 「ひらかに やおりまつる うずのおおみき

 うずのおおみき         」

エ 二番神楽  (2人)  (13分)

 衣装・採物ともに一番神楽と同じ。もどきも衣装は同じで腰にひょうたんをつけ、面を被り、採物は左手に幣、右手に錫杖。

 二番神楽は、一番神楽と同じ舞を舞うが、神楽歌1. を歌った後、次の神楽歌4. 及び5. を歌う。

 4. 「御神楽の鈴の昔よにや 夢さめて よろず世までも 

神ぞまします 神ぞまします  」

 5. 「月と日と ふたりたえまつや

つれなれば

 高天原は ここにまします ここにまします」

 もどきは舞手と同時に出て、両手を腰の後で組み、中腰で舞手の反対を舞う。神楽歌を聞く時は片ひざをついて幣を両手で持って、腰の後にあてる。舞手が「神ぞまします」と言うと、もどきは「ましませんや」と、全て舞手と反対のことを言ったりしたりする。

 舞手が舞い終って退場すると、もどきが対角線上を10回反転しながら舞うが7~8回ごろ早調子になり、3回舞戻しをして退場。

オ 鈿女  (1人)   (2分)

 風折鳥帽子、黄の狩衣、赤の袴、お多福の面、左手に扇、右手に錫杖。お神楽に合せて舞うもので、最初に正面を向いて上体を反らしながら両手で大きく輪をかくように手を振りながら広げ、体を反転させて又もとの動作をするが、互いに7回ずつ繰り返す。

 この後、扇を広げ錫杖を鳴らしながら正面から後に下り、次に扇をふり動かし、錫杖を鳴らしながら前に進み、扇を突きかざすと同時に右足を上げる。それを3回づつ四角で行い、道行きの後退場。

カ 花さんじ (4人)  (24分)

 衣装は、風折鳥帽子、黄の狩衣、白の袴、赤の襷(背の後の結び目に紅白の幣をつける)左手に榊・右手に錫杖。

 道行きをして、反閇四角、道行きをして返りさんじが四角、道行きをして横らいの後、きり舞2回、道行きをして折腰の後、きり舞四角、道行きをして折腰からぎり舞四角(きり舞・ぎり舞ともに舞戻しの時は、採物を持ちかえる)道行きの後退場。

キ 荒神  (2人)  (20分)

 衣装は風折鳥帽子、黄の狩衣、白の袴、赤襷、左手に剣、右手に錫杖。

 「花さんじ」の逆の順序で舞う。

ク 所ならし  (1人)  (16分)

 衣装は風折鳥帽子、黄の狩衣、白の袴、面(顎切れ、左手に扇、右手に錫杖。

 道行きをして舞込み、反閇四角、道行きして舞込みの後、しゃくり四角、道行きして舞込みの後、ぎり舞四角、口上。

「榊葉の うわとしたえに してあれば 天地分けて神ぞまします いにしえいまだ天地のかわらざる時 ふくもりて きざしをふくめり それすみあきらかなるものは雨となれり 重くにごるものは 土となる 詳しくは たいなるが あいなる。第一代には国常 立 尊、第二代には国狭 槌 尊、第三代には豊斟淳 尊、第四代には泥上煮尊、第五代には大戸之道 尊、大戸間辺 尊、第六代には面 垂 尊・惶 根 尊、第七代には伊弉諾 尊、伊弉なみ 尊、之より天の浮橋の上に立たせ給う。天の登鉾をたれたもうに 鉾の先より したたる しお こりかたまいて 一つの島となる。これを名づけて おのころ島と申し奉る 竜神しおひる玉 満ちる玉を奉り、竜神の娘 豊玉姫を妻として うがや ふきあえずの尊を もうけ給う 之より 地神 五代にうつらせ給う。

 第一代には、天  照  皇大神宮、第二代には天忍穂耳 尊、第三代には、杵 尊、第四代には彦火火出 尊、第五代には彦波さ武う草葺不合 尊、天神七代、地神五代、以上神の代十二代過ぎまして 之より人皇にうつらせ給う。」

「八雲立つ 出雲八重垣 つまごめに 

 八重垣つくる その八重垣を 」 道行きの後 退場。

ケ 鉾の舞   (1人)   (19分)

 衣装は風折鳥帽子、面(顎切れ)、黄の狩衣、白の袴、右手に錫杖、左手に鉾。

 左手で鉾の柄の中程を持ち、左肩にのせて鉾尻を高くあげて右手に錫杖を持つ。

 道行きをして、舞込反閇四角、道行きをして舞込みの後、しゃくりを四角、道行きをして舞込みの後、ぎり舞四角、道行きをして正面手前の角より対角線に舞込みをし、鉾先を床に突き刺すように3回突く。太鼓の調子に合せながら、ゆっくりと鉾先を上に持ち上げ,鉾

尻を床にすらせながら左足を軸にして、右足で半円をかき、右足を軸にして左足で半円をかき右足を軸にもとに戻り、鉾先と右足を床にトンとつけて鉾を左肩にのせ、ぎり舞を四角、正面にとまり(水を飲み一呼吸する)口上。

 「天  照  皇大神 いろねいろおとの おんなか不和にして 岩戸をさして りようぎよし給う 彼国のうち 常暗となり 夜昼の相変るわけもなしここにおいて 天の香具山の伊保津 まさかずらをねこぎとし 上杖には八咫鏡をかけ 中杖には 天のみすまろを下げ 下杖には青幣 白幣を下げ 千蔵置座におきたらわし 八百万の神を集め 神楽を奉し

しこうして後 手力男命をもって天の岩戸を押し開き給う、然るびようそうろう」

神和と向い合って合せ舞の横しゃくりをする(右方に鉾先を向け鉾を横一の字にし、目の高さに持ち、太鼓の調子に合せて左まわりで外側内側を交互に行う)。

神和が神殿に向くまで行って鉾の舞は退場。

コ 神和  (1人)  (10分)

 衣装は風折鳥帽子、面、黄の狩衣、白の袴、右手に錫杖、左手に幣。合せ舞は前記につき省略。

 道行きをして舞込み反閇四角、道行きをして舞込みの後、ぎり舞、幣振り四角、幣振りをしながら(最後は早くなる)退場。

サ 弓の舞   (2人)  (30分)

 衣装は風折鳥帽子、黄の狩衣、白の袴、赤襷、正面に扇と剣を置き、右手に錫杖、左手に弓、道行きをして舞込みの後、反閇四角、道行きをして舞込みの後、ぎり舞四角、道行きをして舞込みの後、ぎり舞四角、道行き半周して錫杖と扇を持ちかえる。道行きの後、飛び込み四角、道行きをして弓と錫杖を置いて剣をとり、それを合舞に渡す、弓と合舞の2人が道行きの後、切舞四角、道行きをして、ぎり舞四角、道行きの後、退場。

シ 両剣  (1人)   (24分)

 衣装は弓の舞と同じ、頭にしゃぐまをつける。採物は左手に剣2本、右手に錫杖。

 道行きをして舞込みの反閇四角、道行きをして舞込み横らい四角、道行きをして舞込み縦らい四角、前転し、返り戻しをし、じら舞四角(右手の剣は胸、左手の剣は背中にあてるが舞戻しの時は逆にする)道行きの後退場。

ス 尉の舞  (1人)   (26分)

 衣装は、風折鳥帽子、尉の面、黄の狩衣、白の袴、腰にはひょうたんを付け、錫杖、幣をさし、左手には杖、右手にともし火を持つ。

 体を九の字に折り、左手に杖、右手にともし火を持って楽屋から出てくる。

 杖で背中を支えながら体をさらし、とも火を後にかかげてふるわせながら、大きく輪をえがくように回転させる。

 このことを外返りという。これを数回繰り返し岩戸(天蓋)の前に出る。

 (岩戸(天蓋)は、神殿に向って左側にあり、岩戸(天蓋)には、ろうそく2本をともし、榊に八咫の鏡をつけてある)

 尉は、ともし火を岩戸(天蓋)を持つ者に渡し、杖と錫杖を前に置き、坐って幣を振りながら3回拝む。幣と錫杖を腰につけ、杖を両手に持って杖の両端を上下にあげさげしながら、調子をとって左右にしゃくり上げ、ぎり舞四角、岩戸(天蓋)の前に座り、幣を持って3回拝む。杖を前に置き、左手に幣、右手に錫杖をもち、それを鳴らしながらしゃくり上げる。ぎり舞四角、岩戸(天蓋)の前に座り幣を持って3回拝む。

 幣と錫杖を腰にさし、ともし火をとり、内返りを数回行って退場。

セ 手力男命  (1人)  (10分)

 衣装は、しゃぐま、面よろい、手甲、白袴、竹の鳴子(腰に巻く)、脚絆。

 楽屋から飛びはねながら舞殿中央で止り、神殿に向って四段・神を顔の前で払い清めて、じら舞に入る。2度目のじら舞で左右どちらか一方の榊を放し、3度目のじら舞で残りの榊を放してだ四角の舞込みの後、退場。

 2回目は拝殿から出て、じら舞、しゃぐまをかき上げながら岩戸を探す動作を数回行って、太鼓にとりつく。

ゆさぶる動作を繰り返しながら岩戸(天蓋)を探しあて取りつく(この間、子どもを抱いて、じら舞をする事がある。じら舞をしてもらった子どもは病気をしないという)。

 天の岩戸を押し開いて座り込む。岩戸(天蓋)に寄りすがりながら ひと休みする。

 岩戸の中より八咫の鏡を取り出し、鏡に写し出されたおのれの顔を見て醜悪さに驚く。

 鏡をおさめて岩戸(天蓋)に取りつき、その角を持って八の字に回しながら、じら舞で1周しながら岩戸(天蓋)を頭にのせ、両手を広げてじら舞3回、岩戸(天蓋)を上下に置いて、その上を飛び越えて退場。

〔衣装及び用具〕

(1)天蓋 道具 天蓋

        採物 三宝、榊、錫杖

       衣装 風折鳥帽子、黄狩衣、白袴、白足袋(以下足袋は省略)        

(2)一番神楽 採物 扇、錫杖

         衣装 風折鳥帽 子、黄狩衣、白袴

(3)二番神楽 採物 扇、錫杖、幣

          衣装 風折鳥帽 子、黄狩衣、白袴、面(その1)、ひょうたん     

(4)鈿女 採物 扇、錫杖

       衣装 風折鳥帽子、白鉢巻、黄狩衣、赤袴、うずめの面

(5)花さんじ 採物 錫杖、幣、榊

        衣装 風折鳥帽子、白鉢巻、白衣、白袴、赤だすき

(6)荒神 採物 剣(2本)、錫杖

       衣装 風折鳥帽子、白衣、白袴、赤だすき

(7)所ならし 採物 扇、錫杖

        衣装 風折鳥帽子、黄狩衣、白袴、面(その2)

(8)鉾の舞 採物 鉾、錫杖

         衣装 風折鳥帽子、 黄狩衣、白袴、面(その2)

(9)神和 採物 錫杖、幣

       衣装 風折鳥帽子、黄狩衣、白袴、面(その1)

(10)弓の舞 採物 弓、剣、扇、 錫杖

        衣装 風折鳥帽子、白衣、白袴、赤だすき

(11)両剣 採物 剣、錫杖

        衣装 白衣、白袴、赤 だすき、しゃぐま

(12)尉の舞 採物 ともしび、杖

        衣装 風折鳥帽子、黄狩衣、白袴、尉の面、ひょう  たん、錫杖、幣                      道具 八咫の鏡

(13)手力男命 採物 榊

          衣装 脚絆、白袴、竹の鳴子、手甲、白のあわせ、手力男命の面、しゃぐま、鎧       



参考情報関連
参考情報
〔公演〕 昭和63年10月22日 中国・四国プロック民俗芸能大会(島根県出雲市民会館) 


画像
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