名称関連 | 文化財名称 | 利生山永福寺跡石塔婆 |
要録名称 | 利生山永福寺跡石塔婆 | |
指定関連 | 指定区分・種類 | 有形文化財(歴史資料) |
指定年月日 | 平成1年3月28日 | |
所在地関連 | 所在地 | 長門市日置中6455番地 |
所有者関連 | 所有者 |
銘文により、物部守圀がこの石塔婆造立の勧進をしたことがわかる。
物部守圀は、天福元年(1233)、日置荘地頭藤原又次とともに当地の八幡宮社殿を造営している(昭和57年県指定・日置八幡宮文書 付 棟札)。
この石塔婆は、通称利生山の山麓、永福寺坂本坊跡の地(小字坂本)に建てられた薬師堂の東側にある。以下、石塔婆の所在する利生山永福寺跡の沿革を記す。
寛保元年(1741)の書出(「防長寺社由来」所収の「利生山古跡由緒 永福寺」)によれば、利生山成就院永福寺は、平安時代、長徳3年(997)の創建で、戦国時代、元亀2年(1571)の廃絶と伝える。盛時には、利生山麓に6坊があり、蓮華王坊、坂本坊、南坊、西坊、下坊、福寿坊と称した。また、金堂、釈迦堂、鐘楼、浴室、仁王門があったという。現在、「利生山」や「東坂本」、「西坂本」一帯に、「堂ノ下」、「堂ノ台」、福寿坊」、「寺屋敷」などの地名が遺存しており、往時の利生山の寺域の一端を示している。
戦国時には、永禄5年(1562)、天正9年(1581)に、「利生山寺」(日置八幡宮文書)、天正19年(1591)などに、「利生山」(八ヶ国御時代分限帳、山口神福寺文書・年未詳毛利輝元書状)の寺名所見がある。寺伝によれば元亀2年(1571)の廃絶であるが、その前後には、「利生山寺」や「利生山」の呼称があったことになる。
江戸時代、享保6年(1721)、坂本坊跡の地に、村民が小堂(梁行2間、桁行2間半)を再興し、薬師・釈迦の2仏を利生山伝来の古仏として安置した。
寛保元年(1741)には、時の「永福寺暫住」の僧梅堂が萩藩の求めにより寺伝の書出を提出している。梅堂は長門深川大寧寺の僧である。
天保期(1830~44)には、この小堂が「薬師堂」と称されており(防長風土注進案・日置村)、現在に至る。
この石堂婆については、以上のような利生山永福寺の寺史を中心とする歴史的環境のなかで、昭和40年代の発見・紹介に至るまで、知られるところがなかった。
ただし、天保元年(1830)には、「利生山の旧地と言(ふ)田地の畦路」で、「寛治七年(1093)十一月廿甲午日 雀部重吉」銘の銅製経筒(現在香川県金刀比羅宮所蔵・重要美術品認定)・石槨・法華経等が出土している(防長風土注進案)。また昭和41年(1966)には、「永福寺裏の利生山」で、積石・四耳壷・銅鏡が出土している(日置町史)。これらは、平安~鎌倉時代の経塚関連出土品とされている。日置町史編纂(昭和53~58年)の過程で、執筆委員・調査員が利生山周辺部の現地調査を実施しており、地表観察によっては、新たな知見に到らなかったものの、これらの出土品から利生山が平安~鎌倉時代の日置地方の中心的な仏教信仰遺跡としての位置を占めていたとみなされている。
なお、銘文に「物部守圀」と物部姓の記事があるが、従来、山口県内所在の物部姓の所見資料(鎌倉時代)には、次のものが知られている。
・天福元年(1233) 日置八幡宮棟札
「本棟木銘曰、天福元年甲午十一月十四日己酉造立、物部守圀、地頭藤原又次」
・永仁3年(1295) 竜泉寺跡自然石塔婆(下関市)
「永仁三乙□八月〔 〕 、為物部氏女、願主物部助宗敬白」
・嘉暦2年(1327) 竜王神社文書(下関市) 同年2月12日惣公文物部武久請文案 この石塔婆は、昭和46年(1971)頃、文化財探訪中の長門市羽仁雅助氏らによって発見された。薬師堂参道の石段を登り向拝口の手前約5mの位置に、他の石造物類と共に、倒伏し腐葉土等に埋もれていたものを起こしたという。
その後、内田伸氏により、「利生山板碑」として紹介された(「山口県文化財」第3号、昭和48年3月刊)。
昭和54年、町制施行記念事業の日置町史編纂の際、現地調査の結果、文化財としての保存対策が課題となる。
昭和56年頃、坂本地区住民が野ざらしのままでは風化が進行することを危惧して、囲い(覆屋)を作った。ただし台石にのせる際に底辺部を欠失した。
昭和57年10月20日、日置町指定文化財となる。名称は「利生山永福寺板碑」(有形文化財、建造物)。従来は、地元住民と郷土史研究会に管理がゆだねられていた。
昭和57~58年、県の未指定文化財調査(石造文化財)の際、県内有数の紀年銘資料として注目をうけた(山口県教育委員会「未指定文化財総合調査報告書 石造文化財編」、昭和59年3月刊)。
最近、利生山薬師堂の「自然石塔婆」として史料紹介がある(歴史考古学研究会「石造品銘文集(一)、昭和63年10月刊)。
なお、薬師堂は、享保6年再興以後、「時々、雇ヒ僧」が置かれていたとされ(寛保元年の書出)、その後、無住であったり堂守を置いたりしてきたといわれる。最近では、昭和35年に、地元民と有志により堂屋が改築された。現在は、無住であるが、利生山総代(5名)のもとで、東坂本、西坂本両部落民(約50戸)が維持管理しており、毎月8日法座がもたれている。石塔婆発見地・所在地(大字日置中6455番地)は、地元部落共有地として管理されている(固定資産税非課税地)。(この頃、日置町教育委員会の調査による)
(1)不整形の石塔婆である。刻銘のある面には削平加工がある。下端部には欠失がある。
(2)材質は玄武岩。
(3)現存高85.0cm。最大幅59.6cm(底部幅49.5cm)。最大厚さ16.8cm(底部厚さ12.3cm)。
(4)銘文は次のとおり(拓本参照)。
「百基、為願所、御祈祷也
寛喜元年己丑九月十八日
一千百 大勧進物部守国」
(参考1)「石塔婆」の名称について
利生山永福寺石塔婆は、はじめ、「利生山板碑」として紹介されたが、その際、「上方に本尊の仏像か梵字がないので板碑の範疇に入れるべきかどうか迷うが、百基御祈祷の文字があるので塔婆として建立したものと考え、一応自然石板碑として取扱ってもよいであろう。」との考えが示されている(「山口県文化財」第3号、1973年)。一方、近時は「利生山薬師堂 自然石塔婆」との名称も使用されている(歴史考古学研究会「石造品銘文集(一)」、1988年)。
ここでは、「板碑」、「自然石板碑」、「自然石塔婆」の総称的表現として、1976年県指定の「浄西寺石塔婆」の指定名称に準じて、「利生山永福寺跡石塔婆」の表記とする。
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