名称関連 | 文化財名称 | 旧伊藤博文邸 |
要録名称 | 旧伊藤博文邸 1棟 付 棟札1枚 | |
指定関連 | 指定区分・種類 | 有形文化財(建造物) |
指定年月日 | 平成5年1月12日 | |
所在地関連 | 所在地 | 光市大字束荷字徳王2317番2 |
所有者関連 | 所有者 | 光市 |
明治42年(1909)3月1日起工、10月23日上棟。
〃43年(1910)5月落成。
棟梁…清水満之助(下関清水組)
設計…沖田 某(技師)、原田猪作
監督…渡辺 融(山口県知事)、室田義文(百十銀行頭取)
①建築の経緯等について
伊藤博文が先祖の300年祭に当たり、「家屋」を建築し、「その家屋は、将来、図書館用に供するが如きものとなすべし。」と命じた(公爵邸建築委員 林三樹介の「伊藤公爵邸建設始終之記」)のが建築の契機である。
明治42年(1909)3月1日に工事が始り、10月23日に家屋の上棟式を行ったが、10月26日にロシア(当時)のハルピンにて伊藤博文死去。同43年5月に落成。11月13日には遺族が300年祭を執行した。
工事は伊藤自身の設計に基づき、沖田 某・原田猪作(経歴未詳)がその任に当たったといわれ、当時の県知事渡辺 融と百十銀行頭取室田義文が監督し、下関清水組(現 清水建設株式会社下関営業所)が請け負った。総工費は21,291円38銭。
建物構成は、当初「洋館二階建の本館の外之れに接続せる部屋、炊事場、土蔵其他物置、湯殿等あり」(「伊藤神社落成記念」、「藤公余影」の掲載写真「柳の伊藤公爵邸」「同側面及土蔵」)とされているが、現状では「接続せる」以下の部分が解体撤去(昭和54年8月)されている。
全体的には洋風建築であるが、2階西面に8畳・6畳の和室とその西・南側に廊下、北面に和式便所を設ける等、2階全体の西側半文程を和風としている。
また、周辺部について「面積合計四千坪(平地一千百坪山二千三百坪)の一大邸宅を造り、二方は山、二方は繞らすに花崗岩の石垣を以てし、美麗なる洋館有り。堅個なる土蔵有り、庭園有り、運動場有り、遠望台有るもの即ち是れ柳(地名)の伊藤公爵邸なり。」と形容されている。(「藤公余影」)
②地名について
名称については、建築当初「伊藤公爵邸」と称されている。(明治43年「藤公余影」、大正2年「伊藤公爵邸建設終始記」等)
記念館(紀念館)の名称は、大正5年の「藤公記念館記」(末松謙澄撰)以降、公に使用され始め定着していった。
その後、「藤公記念館」、「伊藤公記念館」、あるいは、「伊藤記念館」等の呼称がある。
なお、建築名称について、「世人本館を指して記念館という。公之をきかれて『おれの記念館は恩賜の憲法記念館あり、何ぞ記念館を要せんや』と」という伊藤本人のコメントがエピソードとして伝わる。(前掲「伊藤公爵邸建設終始記」)
【構造、形式、寸法】
①旧邸(現状)
[構造形式]
身舎桁行14.6m、梁間(側面)9.1m、総高(地表から棟までの高さ)12.4m。
正面ポーチ(吹き放し玄関)1間×1間。地表から棟までの高さ4.9m。
背面西北下屋奥行2.4m、幅4.2m、瓦棒鉄板葺。
1)基礎
雨葛切石(花崗岩)1段。周囲雨落溝付き(背面一部なし)。
切石花崗岩2段積み布基礎(背面中央約4間モルタル被覆)。
2)軸部
木造モルタル吹き付け(クリーム色)、大壁造。
3)屋根
(1)身舎
寄棟造、桟瓦葺。正面中央2間は前間全面に張り出し千鳥破風状切妻造、棟両端鬼瓦。棟は熨斗瓦3枚、紐付き丸瓦、両端上に宝珠型円筒を飾る。降棟は熨斗瓦3枚、紐付き丸瓦、鬼瓦付き。軒平瓦は文様なし。正面切妻造は熨斗瓦3枚、紐付き丸瓦、前先端に宝珠型円筒を飾る。西北下屋瓦棒鉄板葺。西側窓庇と東側出入口庇は鉄板葺。
(2)正面ポーチ
半切妻造、桟瓦葺。棟は熨斗瓦3枚、紐付き丸瓦、鬼瓦付き。
4)妻飾
(1)正面張出し切妻
虹梁束、堅板目透かし合決り張り、虹梁下端に釣束(下部は球形、左右に肘木型笈形付き)、鎧窓(ガラリ、空気孔)、その下部にワインカップ型装飾を付ける。破風板上部に鉄板をかぶせる。
(2)正面ポーチ
モルタル塗り、中央鎧窓、破風板。
5)軒
身者・ポーチ・西北下屋とも疎垂木1軒。鼻隠板付き(西側面窓庇と東側出入口庇の鼻隠板は変形肘木型の飾りを造り出す)。軒天井は堅板目透かし合決り張り(緑色)。背面下屋も軒天井付き。
6)外観
(1)ポーチ(吹き放し玄関)
花崗岩切石2段積の上に角柱吹寄せ(梁間桁行とも)。6本角柱はモルタル洗出し被覆。正面石階2段、両側面スロープ付き。
(2)南(正)面
中央内開き腰板ガラス戸(外側に鉄の飾り付き)、1階の窓下及び2階の窓上にストリングコースを付ける。1階窓上部に溝掘り(23本、カーテン状)付きの枠を付ける。2階の窓は上下に枠を付けるが、溝掘りない。中央張り出し部分の窓上部も溝掘り(27本)付き。窓外に鉄の手摺付き。窓上部に二重丸文、その上にワインカップ状の浮き彫りを飾る。石階1段。
(3)西側面
身者1階の窓は正面と同じ。下屋部分は大壁のまま窓枠なし。2階身舎部分は下部のみ枠付き、戸袋も枠を付ける。
(4)東側面
1階正面と同一手法。出入口は庇鉄板葺き、鼻隠板に変形肘木型の飾り3個付く。内開き桟唐戸をたて、欄間ガラス付き。石階2段。2階も正面と同一手法の窓。
(5)北(背)面
身舎東端2階の窓のみ正面2階の窓と同一手法。他の出入口や窓は枠なし。下屋1・2階とも窓枠なし。
(6)窓
1階は上げ下げガラス戸、背面は引違い。下屋1階片開きガラス戸(便所)。2階は正面中央張り出し部分片開きガラス戸、他は両開きガラス戸。欄間付き。背面は中央2カ所片開きガラス戸。便所は引違いガラス戸、西側面は引込みガラス戸、下屋西側面両開きガラス戸。出入口は腰板ガラス戸をたてる。
(7)床下(空気孔)
正面4カ所、西側面3カ所、東側面2カ所に扇型(透かしのデザイン)、背面2カ所に竪格子の各々鉄金物をはめる。
7)造作
(1)1階
ア)正面ポーチ
床はコンクリート洗出し、四半目地付き。天井は合板(白色)。
イ)中央ホール
床は縁甲板、天井と壁は白塗喰、梁下に花紋のブラケット(持送り)付き、天井中央に菊花紋飾りを漆喰で付ける。正面出入口の上部は飾り付き。床は幅木付き、床材は栂。
ウ)階段
8段で踊り場付き折れて14段、手摺付き。親柱は中央大面取り(上部は幅広く、下部は幅狭い)、最下の親柱は植物の葉を浮き彫りし、上部はドーム型を飾る。踊り場と2階の親柱は上部で大面を八角柱型にとり、頂部の飾りも八角形のドーム型を置く。材は松らしい。階段下は竪板目透かし合決りにし、両開き板戸をたてて収納場所とする。
エ)洋室[1]
床面絨毯敷き(縁甲板か)、幅木付き、天井・壁はクロス張り、廻縁付き、天井中央に丸い花紋の浮き彫り(2箇)を飾る。出入口と窓に枠を付ける。
オ)洋室[2]
洋室[1]とほぼ同じ。天井の花紋や浮き彫りはやや大きい。
カ洋室[3]
床・壁の手法は洋室[1]と[2]に同じ。天井は白漆喰仕上げ。
キ)東側出入口
床土間(モルタル仕上げ)、竿縁天井。
ク)北側廊下
床縁甲板。竿縁天井。壁は白漆喰。東北に手摺付き階段を設ける。親柱は中央大面取り(上部は幅広く、下部は幅狭い)。梁下にブラケット(持送り、肘木状、下面溝掘3本付き)を付ける。
ケ)下屋
洗面所は床縁甲板、白漆喰壁、竿縁天井。倉庫は床モルタル仕上げ、白漆喰壁。
(2)2階
ア)
8帖。床の間、戸袋棚と地袋付き、違い棚付き。竿縁天井、土壁。長押付き。
イ)和室[2]
6帖。和室[1]と同じ仕上げ。境の欄間は飾り板で、月(丸)型の透かしあり。敷居と鴨居は2本溝、建具なし。
ウ)西・南側廊下
床縁甲板、竿縁天井、土壁。
欄間は障子。
エ)下屋西北部分
洗面所は床縁甲板、白漆喰壁、竿縁天井。便所は男女とも床縁甲板に吹き寄せ竿縁天井。
オ)和室[3]
8帖。天井クロス張り、土壁。
カ)洋室[4]
1階洋室[1]と同じ仕上げ。天井は太い格縁を入れ、廻縁にブラケットを付ける。四隅に花紋の透かし板を入れる。背面手前一間のところにアーチを白漆喰で形づくる。腰高窓の下部に天板状のラインを入れる。出入口上部に飾り板を付ける。
キ)階段ホール
床縁甲板張り、天井と壁は白漆喰仕上げ。
8)小屋組
京呂組。トラス構造、中央2本の棟束足元を桁行に挟み固める。正面中央に扠首(合掌)を組む。その左右の合掌材裏面に「正面切妻合掌」と墨書が残る。棟木に付く方杖、棟束などを金物でとめる。梁トラス材を鉄筋で補強する。
②棟板
檜材を使用し、両面は丁寧に鉋かげしている。形状・寸法、墨書は下図のとおり。
安政元年(1854)、一家は、萩の伊藤直右衛門と養子縁組して萩に移住し、伊藤姓を名乗った。
明治2年、萩から東京に移住した。
後に大日本帝国憲法の草案作成等に尽力した。明治18年に初代の内閣総理大臣、同40年には当時の公爵となる。同42年、ロシア(当時)のハルピンにて死去した。
生家は現在、記念公園敷地内に修景復元されている。(平成3年11月、生誕150年記念事業で再整備)
また、萩時代の旧宅は、「伊藤博文旧宅」として国指定史跡である。(昭和7年3月25日指定)
なお、東京時代、高輪(港区)の邸宅、神奈川県夏島(横須賀市)の別荘、同県大磯町の別荘(滄浪閣、明治30年)等のあったことが知られる。
明治41年、大森(大田区)の新邸(恩賜館、憲法記念館とも称した)ができて転居した。
伊藤博文について
伊藤博文は、天保12年(1841)、熊毛郡束荷村字野尻の林十蔵の子として生まれた。
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