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文化財要録コンテンツ

名称関連文化財名称明版一切経
要録名称

明版一切経 

 付 八角輪蔵 

指定関連指定区分・種類有形文化財(典籍)
指定年月日平成5年1月12日
所在地関連所在地下関市菊川町大字吉賀224番地
所有者関連所有者宗教法人 快友寺


文化財詳細
制作等の年代又は時代

(1)一切経は清初(17世紀後半)印造

(2)八角輪蔵は19世紀初め



由来及び沿革

(1)快友寺

 『寺社由来』によれば、開山は言阿上人(永禄12年<1569>寂)で、当初勝善院といった、寺号を快友寺に改めたのは、5世頓空京林上人(慶長12年<1607>寂)のときで、再建に尽力した桂広繁の法名にちなんでのことである。明治初年の末寺は、豊浦郡内に5か寺あった。浄土宗西山派。山号は穐光山。

 桂広繁は、長府藩の当職加判役を勤めた人物で、吉賀郷に1000石を拝領し、居所もそこに定めたが、彼の没後(慶長8年とも12年ともいう)その遺志により居所跡に寺が建てられた。その寺こそが快友寺で桂家の菩提寺となり、広繁及び次ぐ広宗らの墓が本堂裏手の境内地に現存する。

 なお、吉賀村は、のち清末藩に属した。また、寺伝によると、快友寺は文政11年(1827)の火災で本堂、庫裡を焼失させており、再興は天保6年(1835)という。経蔵は、現在山門を入ってすぐ右手に位置するが、文化13年(1817)「快友寺末又末共書上写」(豊浦藩旧記「浄土宗諸寺院明細書」山口県文書館蔵)によると山門を入って左手、本堂前に位置した形で描かれている。

 ちなみに、今日の檀家数は約290軒、明治初年の檀家数は650軒。

(2)一切経

 一切経は、大蔵経ともいわれ、仏教聖典の総称である。快友寺本の版木は主として「永楽南蔵」と呼ばれるものである。明の太祖洪武帝は、漢武5年(1372)ごろから一切経の編纂を開始し、永楽元年(1403)に事業が完成(「洪武南蔵」)したが、のち版木が焼け同10年から再刻し、同17年に完了した。これが「永楽南蔵」である。

 永楽南蔵による印造のわが国における伝存状況は次のとおりである。なお、南蔵版木は6784帖分から成る。

 ①龍谷大学図書館蔵 現存3帖  

 ②立正大学図書館蔵 現存558帖(萬暦18年<1590>印刷)



品質及び形状

(1)一切経

 紙本、木版印造、折本装。函号(天地玄黄…の千字文)によって整理される。函号の確認できる帖数は5412帖。大般若波羅蜜多経巻1から大明仁孝皇后夢感仏説第一希有項徳経まで。このほか、現状では固形化して展開不能で中味が判明しないもの、つまり函号が判らないもの31帖。また函号が確認できない断簡が多数ある。

 各帖の形状は、原則的に表と裏に表紙(黄色の厚紙を芯として、浅葱色の化粧紙を施す)を備え、表表紙に外題箋(縦概ね8cm、横概ね3cm、黄色)を貼る。大きさは、縦約32cm、横約11cm。

 一紙の大きさは、縦約32cm、横57~58cmで、五つに折られる。一紙毎に、朱方朱字印「内翰林弘文/印荘同生」が押されるのを原則とする。(荘同生は字を玉といい、澹庵と号し、江蘇省武進県の出身で1627年生まれ、1646年挙人、翌年進士に及第、翰林印庶吉士に選せられ、その後同院侍読を歴任し、1679年没。荘氏は代々進士を輩出させた名門)部分的に裏打ちの施されたものが見られる。料紙は、薄手の白い唐紙であるが、一種に限定されるものではない。

 版木の右手外枠部分、すなわち各紙継目の糊代部分に、函号や巻数、そして彫った職人の名(刻工名)が見られる。また、「罰工」「撮工」「補工」や彫字数を示したもの、あるいは、刊記(補刻記または助刊記)があるものもある。

 まれに、紙片の右端裏(糊代の裏)に[(函号)字○○○○○帳」「正」「肖」などと墨書が認められる。また、同位置に長方黒字印「胡経房造」の押されるものが極くまれにみられる。版心(多くは各紙の第一の折れ目)に函号・巻数と紙数の表示がある。

 原則として、各函号の第1帖の頭に、釈迦説法図と経牌(牌名は、「皇図永固 帝道返昌 仏日増輝 法輪常転」)、最末に蓮牌木記(「胡君質鋪成造大蔵経諸般経懺倶全信実経房」と枠外にあるが、木記はない)と韋駄天像が配される。なお、韋駄天像には二種類ある。

 経木の冒頭には、経名と巻数、その直下に函号と函次(一、二、三…)が記される。各紙片は、標準的に一行17字詰め、一紙30行の字組で、6行あて5折とし、天地に単界線がひかれる。

 印字体に多様性が認められるのを特色とし、宋版にも通じる古様の楷書体、明末の明朝体、明末の軟字体、清初の明朝体というように大きく4つに分類される。つまり、版木の雕造が明から清であることを示している。函号の判明する5412帖を分類すると以下のようになる。明版のみで成立するもの68%、明版と明の補刻からなるもの13%、明版と清の補刻からなるもの6%、明版と明・清の補刻からなるもの4%、明の補刻のみから成立するもの9%。

 当該一切経が印刷された時期は、清代補刻に見える刊記の最終末年が順治10年(1659)~同16年であるから、これ以降と考えられるし、荘 生の没年(1679)前ということになる。

 当一切経は、荘 生が資金を提供し、南京の報恩寺に架蔵される版木を使って成立したものである。

 わが国に輸入された経緯、また快友寺に収蔵されるに至った経緯は不詳である。

(2)八角輪蔵

 板段葺。八角の一辺(柱芯々)90.8cm、縁八角の一辺108cm、土間より屋根頂部まで346.5cm、土間より茅負下端まで314.5cm。八角形の心柱は、切石角礎石上の花崗岩円形礎盤上にたち、上部は経蔵の小梁に鉄輪をはめてつき通し、回転可能とする。頭貫や中備蟇股の極彩色は所々頽落し、縁板に勾欄の跡が残る。各面15段の引出をつけ、各段表面を経典の幅に合わせて4区切りの竪溝をつけ、あたかも小引出のようにみせる。各仕切毎に銅製あるいは木製の摘みがつき、千字文が刻されるのを原則とする。なお、引出(総計113段分が現存)は4種類に分けられ、原形と思われるもの85段分のほかは後補と考えられる。

 ただし、8面のうち1面は、引出しがなく横板がうちつけられる。したがって、一切経全帖が収納しきれぬ現況にある。

 縁隅扠首に「林屋孫兵衛」「かわち屋」「かわさき屋」などの墨書が認められる。

 経蔵の建立は、14世淵空慈源(享保18年<1733>寂)のときと考えられる(元文4年<1739>書出の「寺社由来」)。ただし、現経蔵の建造は、明治以降と考えられる。




地図



画像
<明版一切経>関連画像001(オリジナル画像表示リンク)<明版一切経>関連画像002(オリジナル画像表示リンク)<明版一切経>関連画像003(オリジナル画像表示リンク)<明版一切経>関連画像004(オリジナル画像表示リンク)
<明版一切経>関連画像005(オリジナル画像表示リンク)

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