名称関連 | 文化財名称 | 長登の岩絵具製造用具及び製品 |
要録名称 | 長登の岩絵具製造用具及び製品
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指定関連 | 指定区分・種類 | 有形民俗文化財 |
指定年月日 | 平成6年1月25日 | |
所在地関連 | 所在地 | |
所有者関連 | 所有者 |
江戸時代以降
図2-5、6の樋に「明治四十弐年」(1909年)の墨書がある
図3-5、6の樋に「嘉永五壬子年」(1852年)の墨書がある
(長登の岩絵具製造用具一覧表)
/名称/実測図番号/高さ又は長さ/径又は幅/その他/特徴/所有者/製造工程/
/桶/図2-1/56.6~57.5/81.0~81.3/深さ50.5/墨書銘有/大庭家/③⑧/
/桶/図2-2/44.2/69.2~71.9/深さ39.0/墨書銘有/大庭家/③⑧/
/桶/図2-3/30.8~32.5/45.4~46.2/深さ26.5/やや楕円形/大庭家/③/
/桶/図2-4/37.0~37.4/44.3~44.8/深さ32.0/底側面に径2cmの穴及び詮/大庭家/⑧/
/桶/図3-1/42.0~42.2/61.7~63.8/35.0/-/白井家/③⑧/
/盥桶/図3-2/24.8/62.0~63.0/深さ15.0/-/白井家/⑤/
/桶/図3-3/34.8/39.4~41.0/深さ29.5/口縁に注口有/白井家/⑧/
/十字架/図3-4/58.5,66.8/-/-/樫丸木に若干の加工/白井家/③/
/石臼/図5/-/外径31.0,内径21.0/-/上段/大庭家/③/
/石臼/図5/11.0~17.5/外径34.0,内径24.0/-/上段/大庭家/③/
/石臼/図5/10.0/外径32.5,内径23.5/-/上段/白井家/③/
/石臼/図5/8.5/32.5/-/下段/白井家/③/
/ユリ盆/図4-5/2.5/34.3~34.8/開口部幅23.7,厚さ0.5/桧製/大庭家/⑤/
/ユリ盆/図4-10/6.1/26.5~27.0/開口部幅17.5,厚さ1~1.5/桧製/白井家/⑤/
/ユリ盆/-/5.3/34.4/開口部幅18.2,厚さ0.5/桧製/白井家/⑤/
/摺鉢/図4-9/13.3/31.0/底径12.2,深さ11.5/-/白井家/④/
/樋/図2-5/186.7/18.0~18.9/側壁高3.0/墨書銘有 14段 松製/大庭家/⑧/
/樋/図2-6/186.0/18.0~18.9/側壁高3.0/墨書銘有 14段 松製/大庭家/⑧/
/樋/図2-7/196.0/18.2~18.5/側壁高5.4/一部破損 15段 杉製/大庭家/⑧/
/樋/図2-8/195.5/18.2~18.9/側壁高5.5/15段 杉製/大庭家/⑧/
/樋/図3-5/187.2/22.5/側壁高5.6/墨書銘有 12段 杉製/白井家/⑧/
/樋/図3-6/188.5/20.9~21.2/側壁高5.5/墨書銘有 12段 杉製/白井家/⑧/
/焙烙/図4-1/3.8/18.3/底部厚0.7,把手長さ4.1/-/大庭家/⑥/
/焙烙/図4-2/4.2/18.4/底部厚0.3,把手長さ4.0/-/大庭家/⑥/
/焙烙/図4-3/3.6/18.0/底部厚0.4,把手長さ4.6/-/大庭家/⑥/
/焙烙/図4-4/4.3/23.0/底部厚0.5,把手長さ4.3/-/大庭家/⑥/
/焙烙/図4-6/3.7/18.5/底部厚0.5/-/白井家/⑥/
/焙烙/図4-7/4.5/21.2/底部厚0.4,把手長さ7.6/-/白井家/⑥/
/焙烙/図4-8/4.4/23.0/底部厚0.5,把手長さ4.3/-/白井家/⑥/
/ヘラ/図4-11/29.0/23.2/厚さ0.8/-/白井家/⑧/
/ヘラ/図4-12/15.7/3.0/厚さ0.8/-/白井家/⑧/
/ヘラ/図4-13/17.0/3.7/厚さ0.5/-/白井家/⑧/
/ハケ/図4-14/16.0/-/-/ワラ縄製/白井家/④⑥⑧/
/ハケ/図4-15/12.0/-/-/ワラ縄製/白井家/④⑥⑧/
/ハケ/図4-16/16.0/-/-/ワラ縄製/白井家/④⑥⑧/
/鉢/-/12.5/29.5/底径10,深さ11/注口がある/大庭家/④/
/椀/-/3.5/10.5/-/木製/大庭家/③⑧/
/柄杓/-/7.0/15.0/柄の長さ33/金属製/大庭家/③⑧/
/エクボ石/-/-/-/30cm大/自然石/大庭家/②/
不明
図2-1、2の桶に「工人阿武郡萩町塩屋町木原 (鶴)之進」の墨書がある
長登の地では、古代には律令国家による銅鉱の採掘・精錬が行われていたと考えられ、東大寺大仏の料銅を産出したとも伝えられ、近代に至るまで防長屈指の銅山であった。銅山周辺では大なり小なり緑青原石を産出する。長登では、それらの緑青を材料に緑青・群青系統の岩絵具生産が行われてきた。さらに、長登は日本唯一のコバルト鉱産出鉱山としても著名であり、コバルトを原料とする薄紫の岩絵具(古代紫)の生産も行われてきた。
古代においては、「安芸・長門二国金青緑青を献ぜしめる」(『続日本紀』文武二年九月乙酉条)、『延喜式』民部省交易雑物条「長門国 ・・・胡粉廿斤 緑青廿斤 丹六十斤 ・・・」などの記録から長門国内に銅または緑青の産出地の所在を想定でき、長登は有力な候補地と考えられる。しかし、中世における長登銅山の業及び岩絵具製造に関する状況は今のところ明らかではない。
近世においては、萩藩の鉱山関係文書に長登の名前は点在しており、緑青の記述も『防長風土注進案』に散見する。江戸時代中期には資源の枯渇や排水技術の限界などの事情により、長登での大規模な銅採掘は中止されている。
しかし、『防長風土注進案』によれば、滝ノ下、大切山に産出する孔雀石を原料として名産「瀧ノ下緑青」が盛んに製造されていたことがわかる。そして、石州大森銀山・阿武郡蔵目喜銅山の鉱石あるいは渡り石(輸入鉱石か)を購入して緑青を製造し、「瀧ノ下」の銘柄を利用して、京・大阪・尾張・江戸などの彩具屋等へ卸していたようである。長登の緑青商人は7軒が記録されているが、白井家、大庭家ともにこの頃から岩絵具製造にあたっていたという。また、天保9~10年(1838~1839)の江戸城西の丸改築に際して、江戸・京・大坂の彩具屋が大挙して長登にやってきたので、緑青を残らず売り尽くし、軒別50両~30両の売り上げがあったとされる。
『諸国産出石類略説』によれば、「長崎経由で輸入した緑青鉱石をことごとく長登に買い入れて細製した」とある。この頃には京・大坂への往復がてら、緑青商いと共に呉服反物を仕入れ、呉服屋を兼ねた商人もあったといい、長登が往時におけるわが国の岩絵具生産の中心であったことがわかる。長登は鉱山の低迷期に岩絵具製造で鉱山町の命脈を保ち続けていたとも言える。
しかし、明治20年代、品川弥二郎が森寛斎に宛てた書簡(山口県立美術館)によれば「長登村の郡青其外製造之事、今度もヤカマシク詮議致し申候、ドウカシテ新製の品を此の度は御目に懸け度ものと存じ候、日本美術の為メニ是非とも保続致サセ度ものと存候」とあり、明治期には岩絵具の生産が順調ではなかったことが看取できる。また、明治期に岩絵具製造に携わっていた大庭茂一(大正4年2月没)の書簡(大庭家所蔵)によれば、緑青調達のために津和野笹ケ谷銅山経営者堀藤十郎氏との取り引きがあったことが記録されており、地元でも採鉱の停滞が岩絵具生産に大きな影響を与えていたことがわかる。
大正頃には、まだ、京都等の問屋からの注文に応じて岩絵具を製造して、製造家が京都へ運んでいたという古老の話もあるが、銅価暴落などをきっかけに、岩絵具製造は、白井家、大庭家の2軒のみとなた。大庭家にあっては大正8年(大庭リヨ氏、昭和18年10月没)、白井家にあっは昭和25年(白井市助氏 昭和31年12月没)を最後に製造を中止している。
(品質、形状)
(1)岩絵具について
岩絵具は天然の石または有色鉱石を粉末精製して乾燥されて造った絵具であり、緑青・紺青・紫・朱・丹・胡粉・黄土等があり、古代より壁画や絵画の彩具として用いられている。珊瑚・茶石・水晶・瑪瑙の末粉も岩絵具に含まれる。
緑青(録青とも書く)は、緑色や濃緑色・白緑色を呈し、中でも紺青(金青、群青とも書く)は藍色、青色、空青色を呈した極上品である。
原石は、主に銅鉱石の酸化帯から採れる孔雀石や珪孔雀石・藍銅鉱を用い、これを微粒状に精製したものである。非水溶性なので膠水やふのりを媒剤として画面上に筆で密着させて描くことになるため、農耕な色感を発揮するのが特色である。
(2)岩絵具の製法と製造用具について
製法は秘伝とされていたが、聞き取り調査や『諸国産出石類略説』によれば岩絵具の製法及びその工程に係る用具は以下のとおりである。
原料分類
①原料鉱石を色目によって上・中・下品に分類。
磨碎
②同品位の原料鉱石を石(エクボ石)の上で石や金槌を用いて大豆粒くらいに小さく砕く。
③十字架を付けた桶の上にのせた石臼で砕いた原石をさらに小さくする。必要に応じて、フルイ・網を利用して、細分化する。
選別 精製
④粉石と水の入った鉢の縁を軽く叩いて震動させて不純物を浮き上がらせて、鉢底に溜った良質の緑青を取り出す。
⑤ユリ盆の中に粉石を入れて、水を八分目くらい入れた桶の中に浸して、ゆすりながら不純物を取り除き、緑青を得る。
岩絵具の原石には、銅の品位が低くても色目が鮮やかな鉱石が使われ高品位の鉱石は精錬に用いられた。岩絵具の良否はすべて原石の良否に左右されるが、色調の鮮やかな良品を得るためには一定の粒子に揃えることが肝要であった。また、粒度を細かくしすぎると絵具自体が白みを増すため、粒度の揃えには細心の注意を要する。つまり、岩絵具製造に際しては、精製の工程、ことにユリ盆によるユリ分けが重要であり、経験に基づく高度な判断が要求される作業であった。
乾燥 仕上げ
⑥緑青を1×1.2mくらいの板に移し、原則として天日で乾燥させる。焙烙で加熱脱水することもある。
⑦製品は正味1斤を和紙に包み、和紙のひもでくくり商品とする。
水簸法による比重選別
⑧上記工程で、各用具に残留した粉石や混状の緑青を集積し、底部に穴を穿った桶の中で撹拌して2段に重ねた樋上に流す。樋の拡大に溜った粉石を乾燥させて白緑青を製造する。(図1参照)
以上の工程に係わる用具は、桶7点(うち1点は盥桶)・十字架1点・石臼4点・ユリ盆3点・摺鉢1点・樋6点・焙烙7点・ヘラ3点・ハケ3点・鉢1点・椀1点・柄杓1点・エクボ石1点、合計39点である。(詳細は一覧表参照)
これらの用具は日用雑器を転用したものがほとんどである。道具は簡単なものであるが、取り扱いには熟練を要する。山口県の伝統的な諸職のひとつであった岩絵具製造の実態を把握する上で欠かすことのできない用具である。
(1)当該文化財は、「長登の岩絵の具製造用具」(37点)として、昭和59年5月7日付けで美東町有形民俗文化財に指定されている。
(2)名古屋の医師原道円が寛政4年(1792年)「墨海山筆」とい本草書の中に長登から名古屋へ岩録青を売りにきた徳山屋権左衛門の倅津森弥一が発病したという記録がある。
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