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文化財要録コンテンツ

名称関連文化財名称狩野芳崖筆板絵着色絵馬
要録名称

狩野芳崖筆板絵着色絵馬

 繋馬図 

 武内宿禰投珠図 

 韓信股潜図 

 予譲裂衣図 

 駿牛図 

 繋馬図 

指定関連指定区分・種類有形文化財(絵画)
指定年月日平成6年5月2日
所在地関連所在地

繋馬図/忌宮神社(下関市長府宮の内町1番18号)

武内宿禰投珠図/同上

韓信股潜図/同上

予譲裂衣図/住吉神社(下関市一の宮住吉1丁目11番1号)

駿牛図/同上(住吉神社寄託)

繋馬図/下関市立美術館寄託(下関市長府黒門東町1番1号)

所有者関連所有者

文化財詳細
制作等の年代又は時代
天保13年(1842)~慶応年間(1865~67)頃

製作者
狩野芳崖

由来及び沿革

 長府藩主毛利氏の御用絵師であった狩野芳崖(1828~88)の在長府時代、「狩野勝海藤原雅道」と名乗った時期を中心とする作品群である。若年期から壮年期に至るものであり、後年の近代日本画家の画業を知る上で貴重な遺作である。県内所在の絵馬のうちでも、制作内容が美術的な評価を受けている。

①繋馬図 綱で繋ぎとめられたもどかしさに苛立つ馬の力強さを、のびやかで勢いのある筆遣いで表現している。本図の下図も残されれており(東京芸術大学芸術資料館蔵)、周到な準備のもとに描かれたものと知れる。

 ③「韓信股潜図」とともに、明治9年(1876)焼失した忌宮神社回廊に掛けられていたという。本体の割れなどは、出火の際の搬出に伴う損傷とみられる。

②武内宿禰投珠図 裏面墨書から、元治元年(1864)11月長府藩主毛利元周室智鏡院による奉納と知れる。

 武内宿禰は、神功皇后を助けて三韓征伐に赴き、満珠・干珠を海に投じて敵兵をことごとく退治したと伝える。蛤御門の変、第一次長州征伐、四国艦隊下関砲撃事件と相次ぐ事件で苦境に追い込まれた長州勢の難局打開を祈念して奉納されたものか。

 旧長府藩藩校敬業館に掛けられていたものという。

③韓信股潜図 漢の三傑といわれた武将韓信が、若い頃、辱めを受けて股を潜らされたが、これをよく耐え忍び、のちに大成して斉王になったという故事に題材を採ったもの。

 製作時期は明確ではないが、描線や彩色等から「芳崖」の号を用い始めた慶応年間(1865~67)頃の作品と考えられている。

④予譲裂衣図 予譲は晋の六卿知伯の臣。主君の仇敵を襲い、一度は忠義心に免じて許されるが再びこれを襲って捕らえられ処刑されたという。本図はその際仇敵の衣を刺して志を遂げたという故事に題材を採ったもの。

 願主は狩野芳崖の友人である長州藩金工師藤島常興(1828~98)。明治18年8月15日の奉納年記があるが、特徴ある描線や華麗な彩色などから、③「韓信股潜図」と同じく慶応年間の作品とみられている。

⑤駿牛図 裏面墨書から、元治元年(1864)下関市井田の来福寺に疎開していた長州藩主毛利元周夫人の御附女中12名が、②「武内宿禰投珠図」と時を同じくして、井田の菅原神社に奉納したものと知れる。

 牛は天神の神使。手綱を切って走る駿牛の姿が描かれており、奉納者の絵馬に託した祈りがよく表わされている。

⑥繋馬図 画面墨書から、天保13年(1842)芳崖15歳の時の作品と知れ、本件の6面の絵馬中最も早い時期の作品である。

 現在彩色が剥落しているが、当初は鮮やかな地に唐草文様を浮かび上がらせた懸布をつけた絵馬であったと推測される。奉納者の藤原道明については不明。



品質及び形状

名称/法量[単位cm/( )内は画面]/品質及び形状/

繋馬図/110.3×94.0(109.2×82.4)/板絵着色 縦1枚板

武内宿禰投珠図/94.6×68.7(83.8×58.0)/板絵着色 縦2枚板

韓信股潜図/76.3×106.4(64.3×95.1)/板絵着色 横1枚板

予譲裂衣図/73.4×106.3(60.9×91.6)/板絵着色 横1枚板

駿牛図/46.7×67.3(37.2×57.5)/板絵着色 横3枚板

繋馬図/38.7×47.7(31.2×40.2)/板絵着色 横3枚板



参考情報関連
参考情報

(1)狩野芳崖について

 文政11年(1828)~明治21年(1888)。日本画家。幕末から明治中期に活躍し、伝統的な狩野派に西洋画の技法をとりいれ近代日本画の創造に貢献した。

 長府毛利家の御用絵師狩野晴皐の長男として長府印内に生まれる。はじめ父に学び松隣と号し、元服の後は延信、皐隣とも号した。19歳で藩費留学を許され、江戸木挽町狩野勝川院雅信に入門、23歳の頃塾頭となる。25歳の頃、師より狩野勝海藤原雅道の名を許される。安政年間(1854~59)江戸遊学を終えて帰国。「八臂弁財天図」「リン姫図」等の作品のほか、「繋馬図」「武内宿禰投珠図」をはじめとした絵馬を製作する。

 明治10年(1877)旧藩主や友人藤島常興などのすすめで上京。明治15年(1882)フェノロサと出会い影響を受ける。明治21年(1888)東京美術学校教官となり、絶筆「悲母観音図」(重要文化財)の完成直後、肺結核のため没す。




地図



画像
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