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文化財要録コンテンツ

名称関連文化財名称絹本着色楊柳観音坐像
要録名称絹本着色楊柳観音坐像 
指定関連指定区分・種類有形文化財(絵画)
指定年月日平成7年12月19日
所在地関連所在地

下関市長府川端1丁目2番5号

(下関市立長府博物館)

所有者関連所有者宗教法人 功山寺


文化財詳細
制作等の年代又は時代
14世紀中頃(高麗時代後期)

製作者
不明

由来及び沿革

 本図の伝来については記録がないが、「明治二十八年古社寺取調書 豊浦郡之部」(山口県文書館蔵)に功山寺の宝物として「一、観音画像、呉道士筆、壱軸」が挙げられており、それ以前の所在が確認できる。また、昭和6年の箱書きでは、「極彩色観音尊像」とされている。

 なお、筆者を中国唐時代の絵師呉道士(道玄)とすることには根拠がないが、古くは中国・朝鮮から請来された「唐物」とみなされていたことがわかる。



品質及び形状

(1)寸法 (本紙)縦146.9cm、横85.8cm。

(2)品質、形状等

 絹本着色、掛幅装。画面右下部に1顆の朱文方印があるが判読困難である。

 画面中央に正面向きに岩座上に結跏趺坐し、右手で蓮華の長茎を持ち、左手掌で茎尾を支える観音を描き、左下部に合掌讃仰する善財童子を小さく描き添える。観音の後方に、楊柳の枝を挿した水瓶と受鉢を配するいわゆる楊柳観音像である。

 観音の肉身は金泥塗りで、裳は朱具地に亀甲文と蓮華の円文を散らし、化仏を頂いた宝冠や瓔珞も華やかである。

 頭部から被る淡い朱具色のヴェールは、白色の極細線で薄く透け通る様に巧みに表現しており、麻の葉つなぎの地文様に金泥をまじえた逆S字入りの円文を散らしている。

 濃厚な彩色や金泥の多用、煩雑な文様の使用、衣や岩の輪郭の墨描線に添えられた金泥線、観音の被るヴェールとそれを透かした表現など高麗仏画としての様式上の特色を良く備えている。

 また、本地幅が85.5cmの広い幅を持ちながら一幅一鋪であることも、高麗仏画の料絹に認められる特色である。なお、昭和6年の修理の際に、天部および右側部数カ所に補絹が施されている。

 四角っぽい顔、髪際や鼻梁、小鼻などの面貌描写などの硬さから、製作年代は14世紀中頃と考えられる。

 高麗仏画の遺品は、県内では他例が確認されていない。また、楊柳観音像で、結跏趺坐の正面向きの図像は他には知られていない。



参考情報関連
参考情報

(1)功山寺について

 前身の長福寺は嘉暦2年(1327)臨済宗東福寺の僧虚庵玄寂の開山と伝える。長門探題であった北条氏の壇那寺的存在であったと考えられ、その後、後醍醐天皇、足利尊氏、足利直冬、長門守護大内詩により寺領が安堵された。長福寺の寺史で「諸山」に列せられていたことと、対外通交とのかかわりがあることが注目される。たとえば、享徳2年(1453)同寺の令セツ、玄浩の両名が遣明船で渡海し、開山虚庵玄寂の「行録」(功山寺所蔵)を得て翌年帰国している。なお、これと同時に東隆寺の僧も「南嶺和尚道行碑文」(県指定文化財)を得たほか、天文9年(1540)の遣明船にも乗船している。また、文明11年(1479)朝鮮にわたり大蔵経を入手した大内政弘の使僧は、のちに東隆寺住持となる。長福寺と東隆寺は共に、長門国所在の諸山として遣明船にも関わっており、後者の場合には、朝鮮通交とのかかわりも明らかである。本像の場合も、長福寺時代の海外通交との所縁で、当寺に伝来するものかもしれない。

 その後、弘治3年(1557)大内義長は毛利氏に攻められて当寺で自刃。のち慶長7年(1602)初代長府藩主毛利秀元が曹洞宗笑山寺とした。慶安3年(1650)秀元の死後、その法号により功山寺と改め、長府毛利氏菩提所として寺領250石とされた。鎌倉時代建立の旧長福寺仏殿は、唐様仏殿の典型として国宝指定を受けている。

 なお、山号の「金山」は、長福寺山号を継承するもので、中国長江の金山寺にちなむ。なお、遣明正使をつとめた永福寺桂庵玄樹の詩に「長門金山」がうたわれている。




地図



画像
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