名称関連 | 文化財名称 | 長府藩主毛利家墓所 |
要録名称 | 長府藩主毛利家墓所 | |
指定関連 | 指定区分・種類 | 史跡 |
指定年月日 | 平成26年12月2日 | |
所在地関連 | 所在地 | (功山寺)下関市長府川端一丁目2171番1 (笑山寺)下関市大字豊浦村字土肥山2692番地 (覚苑寺)下関市長府安養寺三丁目1272番地 下関市長府安養寺三丁目312番地4 |
所有者関連 | 所有者 |
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利輝元・秀就父子には周防・長門両国が与えられることになった。
これを受けて輝元は、従兄弟である毛利秀元に、長門府中(長府)において3万6千石余を与え、萩藩の支藩である長府藩が成立した(後に4万7千石、天明3年(1783)には城主格となり5万石)。以後14代にわたり長府藩を治め、明治4年(1871)の廃藩置県を迎える。
参勤交代により各藩主は、国元もしくは江戸で没することになる。長府藩主の場合、国元で没する事例は2例を数えるにとどまり(6代匡広、13代元周)、多くは江戸で没した。そして一例を除き、泉岳寺(現東京都港区)に埋葬され、国元(長府)には詣り墓を設けた(3代綱元は例外で、江戸で没するものの遺体を長府に搬送して埋葬した)。すなわち、長府に現存する3代綱元・6代匡広・13代元周の墓(いずれも覚苑寺)は埋め墓であり、他の藩主の墓は詣り墓である(ただし、14代元敏は明治41年に長府で没し功山寺へ埋葬)。
また、正室については江戸在府が基本であったことから、江戸の泉岳寺に埋葬され、長府には詣り墓が設けられた。
近代に入り、国家神道が奨励される中、華族たる旧大名家へも神道の影響が強まった。そのとりわけ墓制においては顕著であり、長府毛利家も例外ではなかった。長府毛利家では、領内にあった関係者の墓を功山寺に集めると共に墓域の整理を行い、あわせて近代以降の関係者を当該寺院に埋葬した。
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