名称関連 | 文化財名称 | 紙本金地着色安徳天皇絵 |
要録名称 | 紙本金地着色安徳天皇絵 | |
指定関連 | 指定区分・種類 | 絵画 |
指定年月日 | 昭和41年6月10日 (山口県教育委員会告示 第5号) | |
所在地関連 | 所在地 | 下関市阿弥陀寺町4番1号 |
所有者関連 | 所有者 | 宗教法人 赤間神宮 |
/本紙 縦/本紙 横/表装 縦/表装 横/
1号/157.0cm/125.0cm/222.0cm/135.0cm/
2号/157.0cm/125.0cm/222.0cm/135.0cm/
3号/160.0cm/88.5cm/225.0cm/98.5cm/
4号/160.0cm/88.0cm/225.0cm/98.0cm/
5号/160.0cm/88.4cm/225.0cm/98.4cm/
6号/160.0cm/88.0cm/225.0cm/98.0cm/
7号/159.0cm/125.0cm/224.0cm/135.0cm/
8号/158.0cm/125.0cm/223.0cm/135.0cm/
各画幅に色紙形2枚を附し、各段毎の説明を記してある。2枚を夫々(イ)、(ロ)と分けて記載する。
1号 (イ) 賀茂春日日吉嚴嶋等霊社其上法皇有御祈念及申剋皇子降誕上下万民無不喜悦
(ロ) 剥落して文字なし
2号 (イ) 祈被晝數房覺僧正昌雲僧正豪仙僧都實全僧都仁慶法印等各砕肝膽被奉祈然而御産未成漸経時剋是所謂生苦之定理歟
(ロ) 治承二年十一月十二日中宮建礼門院自此曉□□(御産カ)氣御座仍法王密々有御幸開(関)白殿下大臣卿被群参自禁裏御使無隙御
3号 (イ) 壽永二年七月廿五日依東國武士競上爲平家人々討□主上行幸西國此夜半法皇密々
(ロ) 御幸天台山寂場房自是曉渡御圓融房之間奉始入道殿下松殿関白大臣公卿皆悉被参集圓融房中
4号 (イ) 同廿七日自天台山法皇還御奉人々入道殿下関白殿太政大臣師長左大臣 経宗右大臣兼實内大臣實定以下公卿
(ロ) 墨書なし
5号 (イ) 元歴元年〔 〕州一谷合戦之間越前三位湧盛卿已被打〔 〕悲〔 〕
(ロ) 其後偏臥沈境即有懐孕之事不堪哀傷同十三日夜半自船入海彼人之侍女同以投信但此女者取止之剃頭訖権亮三位中将見聞此事
6号 (イ)、(ロ) 共に剥落して不明
7号 (イ) 墨書なし
(ロ) 侍飛騨左衛門景經同兵衛景俊越中兵衛盛継上総兵衛忠光悪七兵衛景清以下其数多被打訖
8号 (イ) 北政所大納言典侍生取之被□荒武士□帰〔 〕書被□船君之〔 〕國〔 〕黛〔 〕位爲〔 〕
(ロ) 墨書なし
以上、各色紙1枚につき4行之至5行に書かれているが便宜上書下した。また、□・〔〕は剥落のため明確に判読しかねるものである。この書は三条西実隆と伝えられ、各号を通して書体が酷似しておることから同一の筆者であることが推測される。色紙自体の色については、褪色甚しきため省略した。
赤間神宮は元真言宗阿弥陀寺で、貞観元年(859)河内国大安寺の住職行教の開基に依る名刹であった。
偶々源平両氏、長門国壇の浦に戦いを交えた結果、平家一門と倶に海中に入水遊ばされし安徳幼帝を本寺に奉葬し御影堂を建立、第82代後鳥羽天皇は勅願寺と定められ、永く皇怨を安らめ奉った。かくて室町時代に至り、御影堂の襖8面に先帝を追福し奉り安徳天皇御縁起の絵図を画き、懐古の物語としたもので、筆者は土佐光信と伝えられる。明治8年におよび、御影堂を改め赤間神宮を創立するにあたり由緒ある絵図保存のため軸物に改めたものである。当絵図は安徳天皇の御降誕に始まり、壇の浦御入水をもって終わる所謂縁起絵に属し、その内容は平家物語並びに源平盛衰記に極めて忠実かつ詳細に画かれている。その風俗描写において大半を占める武者の甲冑姿は大鎧を着用しながら筋冑をつけ、軍扇形その他の異様な前立が散見し、草摺の裾窄みの様式など室町時代の作品であることが明らかである。
襖絵であることと共に別紙の絵説の存在から、阿弥陀寺の住僧が鞭を執りつつ参詣者に説明を行っていたことが窺がわれ、このため殊に人口に膾炙されている部分の人為的剥落は惜しまれるが、平家の哀史を如実に画いた力作は、なおよく製作当時の面目を保っている。
[赤間関阿弥陀寺安徳天皇繪説次第]
一、仁王八十一代之帝安徳天王と申奉るハ八歳之御影ニ而御座候御父ハ後白川法王之太子高倉新院様と申奉る御母君ハ平清盛殿御息女太慶文女院様と申奉る清盛殿ハ京都六篠ニ而御病死ニ而御座候是ハ又大納言殿太子重平之卿之北のかたニ而候是ハ又蔵人信盛と申て天王様之御めのとニ而候是ハ又治部之卿のつぼね天王様の御ちの人ニ而まし候是ハ又新中納言友盛又平野中納言則盛是ハ又御兄弟也平野中納言殿ハ能登殿之御父ニ而まし候是ハ又修理太夫経盛則教盛殿の御父ニ而候何茂是迄ハ皆平家の御一門ニ而御座候是より大裏の様子天王様御誕生の御さんけにて候得共御なんざんニより諸寺諸社之御祈祷被遊候又叡山よりしる年を召下よりを立御いのり被成候様子有様御座候得ハ御平産被遊候是ハ又御悦ニ小松の内大臣殿御参内之所其外御公家衆皆々御悦ニ御参内之所是ハ又天王様御祈祷ニむしやの的を射させしむ所是ハ又御所車ニ公卿天上人達の召れ御悦ニ御参内被成候所是迄ハ皆々目出度事計ニ而御座候偖又木曽義仲者軍兵を揃乱れ入大将ニ者今井の四郎益平手塚の太郎光盛大江の四郎兼光彼等を召連都ヘ打入らしせき御様子法王様ハ此由を御覧して叡山江御行被遊候所扨又白幡ハ近江の国源氏吉有の官者叡山江法王様の御供仕候又あの法師達ハ法王様之御迎ニ参り帝守護し奉る所扨又平家ハ津の国一ノ谷ヘ趣引籠り候偖又是より阿れ迄ハ一ノ谷之大手ニ而 御座候又一ノ谷の大手の惣門をは源氏の勢ことくせめよせ候中にも川原太郎ハさかもき切破り先陣を仕候所扨矢倉より間部の五郎一矢射申所是ハ又熊谷平山と先陣後陣のあらそいの所是ハ又梶原平蔵景時二度の合戦の所同各之景末太わらハに成て軍せしむ所是ハ又三位の中務重平沖成舟を目ニかけ落させ給ふ所を伊勢の四郎高家海中ヘ追詰申ニあまりせんなき仕度ニ而海へ御身をなけさせ給ふ所を高家か生取申たる所也重平の良等ニ後藤兵衛盛長と申者此有様を見申乗にけ仕候所を梶原追掛申所是ハ又一ノ谷てつかいか参を大将義経諸軍兵を召連此峯よりせめ落し給ふ御評定之所也先馬をとさせられ候所へ其時弁慶山中ニ而狩人壱人召取御前ニ召連参申所大将御覧し此山の案内ヲ能仕候得と之御定あり名をハわしの尾の小太郎と申しニ而候夫よりかんせきおとし先陣佐原の十郎吉忠ニ而候大将一軍義経御馬御落し被成候上ハ諸軍兵我もとせめ落し候是ハ又源氏の方々伊の文小平六か越中のせんじ盛年をふか谷江組落首を取所是ハ又尾張守道房越前守清房敵七騎か中ニ而軍せらるる所ニ身方の佐々木と組合之所蔵人大夫義盛をむしや野か引時首を取所かうくらの助経政を川越の小太郎か追掛い申所是ハ又薩摩守忠度と岡部之六弥太忠澄と組合の所是ハ又備中守法盛殿小船を引寄飛乗給ひし夫ハ乗返し浮ぬ沈みぬ仕給ふ處ニ本田の太郎掛合熊手ニ引かけ引寄生取申處あれハ又熊谷敦盛を見候而追掛招候所新中納言殿銘馬乗り御座舟を目かケ六七反計遊せ御舟ニ乗移り給ふ所也友盛の御子息武蔵守殿の首を取所能登守殿何とか思しけん小舟ニ打乗りハ嶋をさして落させ給ふ所此有様を見て我も我もと皆皆ハ嶋へ落給ふ所扨又八嶋ニハあわの民部重吉と申仁か大裏を立置奉り天王様を移し申守護仕候所是ハ又九郎義経八嶋へ数万騎召連せの給ふ所也扨八嶋ニ軍有候時平家方の謀ニ玉虫と申女扇の的を小舟より指出し是をいよとのそミける御方ニハ那須の与市宗高ニ被仰付申所也是ハ又能登守殿小舟ニ召わっぱの菊玉丸一人召連波打きわにて次信をいおとし給ふ其時次信か首取ニ菊王丸舟より飛下り申所を忠信来合菊王丸を射申所是ハ又伊勢本田三郎吉盛と越中の次郎兵衛と戦ふ所扨亦景清と見尾の衆の四郎と組合之所九郎判官弓流しの所扨亦平家ハ八嶋ニたまりかねことく御舟ニ 被召風に任て落下り給ふ源氏も同日長門阿井津賀浦迄追せめ給ひ元暦貳年三月二十四日巳の時の事成に源平国あらそいの矢合今日かきりの所梶原敵の舟ニ乗移り舮舳に追詰追廻し軍する所也是ハ又川もの太郎者盛殿船頭成ハ遠矢ニいる所身方ニ新木の四郎も適の舟に遠矢をいる扨あの舟は平家よりふりやくいたし御座船ニよせらるる所是ハ又阿波の民部重吉心替り之處内大臣宗盛殿ハ友盛殿をめして重吉心替之御詮義の所此山寄の宮立ハ如何成宮そ當所ハ八幡宮ニ而候扨舟付ニ見えたるハ亀山八幡の宮立ニ而候扨あの向ふに見えたるハ町作りあれハ南部と申候昔ハ南部町より亀山江橋掛りたると申候扨是ニふしきの事の候天より白幡八流ふり下り候源平の人人何国に落着そと見物仕候所也源氏の御舟ニ其侭ふり下り諸人目を驚候扨又大臣殿御目にいるかと申魚大分見えたりいかゝ心元なく安部の安近と申博士を召てあれうらなへとの御事也畏候とて頓而占ひ申様ハあの魚敵の舟に向ひ候ハゝ御軍ハ御身方の御勝又御座舟ニ向ひ参候ハゝ御身方の御まけに成候と申もあへぬに御舟に向ひ参りけり扨亦能登殿九郎義経をめかけ色よきよろひきたる若武者を義経ニ而候と思召ける所あの舟より大将軍と思召貴人の乗たるとて能登殿飛込ける所に義経後へ八艘へたてゝ飛給ふ是を義経八艘飛と申也是ハ又女院様の御入水の所を渡セ源五高家と申者能手を差おろし引寄生取申所是ハ又能登殿よろひかなくり捨テ大わらわに成てともべに掛廻り何者成共我か首を捕大将ニ捧よと申候處佐渡の国の住人秋太郎秋四郎とて兄弟貳人能登殿舟飛移り組んとする所を左右の脇ニ取て挾一しめしめて其侭御入水也中納言則盛修理大夫経盛手と手に取組其侭御入水之所也是ハ又三位中務御兄弟手を取組碇をひいて其侭御入水大臣殿御父子御舟より御身をなけかねて舮舳にかけ廻り給ふ所を侍壱人つゝとより海へつき落しける所を伊勢三郎吉盛舟を押寄能手ニかけ父子共々生取申所仭亦天王様をハ二位殿いたき奉り左の御手ニ寶剣を持右の脇ニいたき奉り一首か今そしる身もすそ川の流れには波の底にも都有とハとよミ給ひ東に向て天照皇太神 ヘ御暇乞迄被遊候後ニ西に向て御手を合させ給へと申上候得ハいたいけなる御手を合させ御禮儀相済候時いたき其侭御入水此有様を見申雑兵ニ至迄不残入海也則源氏の御代也御祝言。
江下佐竹先祖佐竹 朱印
本主 梶山小佐衛門
(以上2行の各行別筆)
後 佐竹ト改
(本文及右の奥書とも別筆)
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