名称関連 | 文化財名称 | 絹本着色大内義隆画像 |
要録名称 | 絹本着色大内義隆画像 異雪慶殊の賛がある | |
指定関連 | 指定区分・種類 | 絵画 |
指定年月日 | 昭和42年1月17日 (山口県教育委員会告示 第1号) | |
所在地関連 | 所在地 | 山口市大字大殿大路119番地 |
所有者関連 | 所有者 | 宗教法人 龍福寺 |
龍福寺殿從二品雲殊天大居士
大江賢府君隆元公開闢於當寺 崇敬於先」君多々良之義隆卿
山名瑞雲寺龍福」相攸千防城山口之縣 矣 荘嚴最美、佛閣」高聳 矣
往還僉日疇昔維摩笏宝現」三萬二千獅子床下界 乎 希有々々 矣 」
而今聘於山僧 掌香火之職也 」晨夕参扣孜々靡倦 其勤苦篤 矣 」
仍繪於幻質安置焉 着護云 」 児葉孫枝追日茂 大江流長億千季
前総寺異雪叟書之
(異雪叟の文字の上に香炉形と方形二重廓の2個の印あり)
弘治3年(1557)4月に大内義長を亡した毛利氏は、自らそのあとを継承したが、毛利隆元は義隆の菩提寺として龍福寺を大内屋形跡に再興することとし、朝廷に奏して玉堂和尚宛の綸旨をいただいた。これに従って隆元は同年龍福寺を再興し、9月1日に7回忌を執行したのである。
この画像について風土注進案には「天正三年弐拾五回御追遠の前8月15日輝元公御寄附」と記しているが、賛を書いた異雪は既に永禄7年(1564)10月17日歿しているので、義隆の25回忌のときは生存していない。
天正3年(1575)8月15日に毛利輝元が義隆の25回忌を申し付けている文書が龍福寺に現存しているが、画像の天正3年寄附説はこの文書による誤りと思われる。
賛を書いた異雪慶殊は、大内義隆が深川大寧寺において自刀した際、菩薩戒を授けた大寧寺住持で、その後壱岐に渡り曹洞宗華光寺に請われて中興開山となり、また同国の龍蔵寺に招かれて開山となった。それに前後して天文22年(1553)には総本山総持寺に出世して輪住となり、また一方、対馬の宗氏に迎えられて法を説いた。毛利元就が防長2州を統治した後、毛利氏に請われて再び大寧寺に戻り住し、永禄7年10月17日63才で寂した。賛に「今聘山僧掌香火之職」とあるが、これは龍福寺の住持となったというより、年忌に際し、導師として法会を執行したと解すべきであろう。
現在の表装は明治32年に改装されたらしく箱の表に「当寺開基大内義隆郷尊像山口龍福寺秘蔵明治参拾貳年四月拾九日二十七世道本改装」とある。
明治28年に近藤清石が本図を写した副本がある。本図の縦横は76cm、35.5cmと原本よりわずかに小さいが原本をよく写している。箱書に「明治二十八年三月一日近藤清石写道本新添」とあって、その由来がわかる。
龍福寺は享徳3年(1454)大内教弘が、小鯖闢雲寺中興覚隠の高弟雪心を開山とし白石に創建した。義隆の時、奏聞して勅願所とし官符を申請して重建したが、天文の乱に兵火に罹って焼失した。
弘治3年7月毛利隆元は、大内義隆の菩提所として白石から寺号を引いて大内屋形跡の今の地に龍福寺を建立した。この時現住玉堂和尚に論旨を賜った。堂塔結構宏壮であったが、明治14年3月16日火災に罹り、禅堂、山門の外は殆ど灰になった。再建に際して本堂は氷上山興隆寺の釈迦堂を移築した。この本堂は室町末期の建造にかかり、寺院として宏壮な建物であり、昭和29年国の重要文化財に指定された。
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