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文化財要録コンテンツ

名称関連文化財名称日本安国寺 五葉院記
要録名称日本安国寺五葉院記 
指定関連指定区分・種類書跡
指定年月日昭和44年12月5日(山口県教育委員会告示 第27号)
所在地関連所在地宇部市厚東区大字棚井647番地
所有者関連所有者宗教法人 東隆寺


文化財詳細
制作等の年代又は時代
明時代 嘉靖19年(わが国天文9年-1540年)

員数
一幅

製作者
黄鳳鳴筆

品質及び形状
紙本墨書、掛幅装

寸法又は法量
縦127cm、横65cm

本文

 夫五葉院者、迺日本長州厚東郡鳳凰山安国東隆禅寺高僧之居也、僧名禅恕、別号仁渓、偶備使者之員、入朝我大明一統聖国、寓甫江之嘉賓堂、一日来会予、而言日、宋時有蜀蘭渓祖師大覚禅師、来日本盛法道、自蘭渓伝約翁和尚、約翁伝南嶺和尚、南嶺和尚卜地開山、遂為安国寺、南嶺伝法月山、月山的派柏岩西堂、始構五葉院、自柏岩後、有嗣徒毎歳輪流看院、歴歳悠遠、故梁棟傾斜、垣壁頽堕、渠々偉績将復于隍矣、吾師謙室西堂吁嗟不已、遂重修厥址竭、興土木之功、上酬柏岩法恩、下伝法嗣世守、其功不可忘也、予不敏未能求文以記其功、茲寓文章大邦、敢請縉新紳先生記之、余因与之言曰、上古俗淳民朴、穴居若龍蛇之蟄、埜処若鹿豕之遊、後世聖人憫其土処而病、木処而顛、易之以宮室、上棟下宇、以待風雨、尚易大壮之象也、彼大壮之卦、有安固不遷之義、故宮室之制、聖人尚之、後世安之、凡亭臺廟観寺院庵、名雖不同、同帰乎聖人之善制、而万世無易也、今拠釈氏之著談、謂天之上有堂、地之下有嶽、日月之中有宮囿、星辰之域有里数、反以乾坤之大、照臨之顕、山河之著、将欲掃除泯滅、而洞然不立、斯謂其教也、今謙室西堂重修五葉院、又聞西有一華軒対之、逢春軒左其側、天香閣、玉カン/img>橋、鳳凰山、鴛鴦池、凝翠、惜陰、落潮灘、降霜嶺、招鶴亭、戯魚臺十境、又森列其中、夫一寺之間、占山水明秀之美、得泉石膏乎盲之趣、雲屏四遶納青護於虚ソウ/img>、以太行之盤谷、枕帯清泉、ガン/img>キン/img>書以適興、以韋瓊之幽居、此名僧卜築之勝地也、然地則勝矣、其視釈氏洞然不立之言、則一院之立已非空矣、况其余乎、鳴呼此非釈氏之徒叛其空虚之教也、物可尽空、而理不容於尽空、故人之制物、亦安於理之自然面已、且人生天地間、食以生之、居以息之、舎一不可以全躯、况仏教雖異端、而著書亦多、営置儲貯、将以遺後世之投簪祝髪者、伝誦已不、借曰、洞全不立、則仏之絵像無所依依帰、置造之書無所蔵貯、雖有奉法為徒者、無所聚居、将何以遺後世伝誦之不已、故謙室西堂之修院、正以伝其教於悠遠、仁渓之求記、正以彰其功於後人、修於前而記於後、則法教愈盛、一燈燃千燈、且慰乎一華開五葉之立意、何悪其有所建修、而叛其洞然不立之教哉

 大明一統聖国嘉靖一十九年、歳値困敦、実沈蘭月、四明紫谷外史、黄鳳鳴書




地図



画像
<日本安国寺 五葉院記>関連画像001(オリジナル画像表示リンク)<日本安国寺 五葉院記>関連画像002(オリジナル画像表示リンク)

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