名称関連 | 文化財名称 | 赤崎神社楽桟敷 |
要録名称 | 赤崎神社楽桟敷 | |
指定関連 | 指定区分・種類 | 重要有形民俗文化財 |
指定年月日 | 昭和38年10月26日(文化財保護委員会告示 第58号)重要民俗資料 昭和50年10月1日(文化財保護法1部改正に伴う名称変更) 重要有形民俗文化財 | |
所在地関連 | 所在地 | 長門市 |
所有者関連 | 所有者 | 長門市 |
赤崎山(高さ約20m)の自然の地形を利用した本桟敷は、山の中腹に位置する赤崎神社の西南摺鉢状の山の浴を利用し、社殿を背にして、社殿に正面する歌舞伎舞台小屋に西面して摺鉢状の底面を踊場(楽踊 南條踊)とし、北・東・南の壁面を客席構として、石積段型による摺鉢状半円形の野外劇場型で総面積400余坪、数段(北側3段、東南12段)のスタンドがあり、1段の高さは90~170cm(3~5尺)位で、上部の幅は120~180cm(4~6尺)位で畳3枚位宛に区分され枡形桟敷を形作っている。なおこの枡は、自然発生の熊笹或は雑草をもって垣を作っていることは興味深い。
桟敷は、楽踊・南條踊・芝居を観覧するスタンド状の高桟敷と、夜の芝居だけを楽観する平桟敷(踊場)とがあり、古くから由緒に基く所有者が決っており、(現在高桟敷約130戸・平桟敷約70戸)代々子孫に伝来したもので、それ以外のものは入れない。又個人持の他に祭組関係の桟敷があり、南條踊組桟敷・楽踊組桟敷・芝居組桟敷とに区分して設定し、出演時の控え場所にあてている。
毎年9月10日の祭礼になると、前日よりこれらの桟敷の所有者は、桟敷を架けると称して、数本の竹を持参して、野生の熊笹、雑草を利用して竹矢来の垣を組み枡形を作るのである。
農村歌舞伎系舞台における客席構の桟敷は、スロープ形式と段型形式に分類され、福島・群馬等の舞台には、スロープ形式があり、神奈川・香川等には段階形式の客席構があるが、赤崎山の段型半円形石積形式桟敷の歌舞伎系客席構は、いままで日本において見ることのできなかった貴重なものである。
赤崎神社楽桟敷は、赤崎神社の御祭礼神事式に奉納した民俗芸能の観客構として発生し現在に至ったものである。
その発生については、慶長元年(1596)当地方に牛馬の悪疫が大流行し、深川村内でも380頭の牛馬が疫死したので、牛馬の守護神である赤崎神社(山口県長門市東深川鎮座)に平癒を祈願し、その立願成就の恩恵に奉謝するため、それ以来毎年8月10日(陰暦)の御正祭神事式に深川村管内7カ村より7楽(楽踊5・南條踊1・地芝居1の総稱)を奉納し来ったもので南條踊の奉納は延宝2年(1674)より、この奉納芸能の観客構として構築されたものと思われるが、初期にはまだ現在程整備されたものではなく、芝居の普及する江戸中期以降、地踊の祭組が地芝居を奉納するようになり、それに伴って舞台小屋も創設され、時代を経るにつれて摺鉢状の自然を利用した桟敷も整備拡張されて野外円形劇場としての型態を整え、楽桟敷と呼稱されて現在に至ったものである。
なお桟敷の構築と所有関係については、桟敷が江戸末期には存在していたことは古老よりしても明らかで、更にそれ以前にも遡り得るものである。現況の桟敷の中位即ち下から3段位迄が江戸時代に、中段以上が明治初期より後期にかけて構築されたものであろう。初期所有権についてはその究明が困難であるが、該地赤崎山は藩政時代の深川村江良の給領主椙社氏(萩藩寄組に属する上位の藩士)の所有であり、その桟敷権を在郷藩士或は上層農民に売却して来たものらしく、明治維新の変動に依る経済的窮乏のためか、明治になると頻々に売却した。その買収者の中には更にそれを他に転売する者あり、又隣接の山林を含めての買収者(旧江良)もあり、又夏の暑い日射を避けるために、折角買い受けた松の木の一部を伐材せずに残したものもある。
それらは概ね藩政時代の村内の高持百姓であり、庄屋・畔頭階層の富農層で、赤崎神社祭組の頭屋層であったものと思われる。その祭組も明治維新後氏子制に発展し新規の祭組も派生し拡大して来たものである。
大正11年、桟敷土地の大部分(一部は神社有)は深川村有地となり、さらに町有地となり、現在市有地となったもので、その間桟敷権保有者も漸増(細分化し共有化され)し、大正頃まで約60軒程度であったものが現在約140軒(芝居組桟敷を含めれば約200軒)になっている。まお桟敷権の拡大については、特に平桟敷に見られるように、地芝居奉納の経費がかさむのでその費用を捻出するために祭祖桟敷を細分して売却していることも注目されることである。
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