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文化財要録コンテンツ

名称関連文化財名称切山歌舞伎
要録名称切山歌舞伎
指定関連指定区分・種類無形民俗文化財
指定年月日昭和51年3月16日 (山口県教育委員会告示 第3号) 無形民俗文化財
所在地関連所在地下松市
所有者関連所有者

保持者関連
保持者
切山歌舞伎保存会

文化財詳細
時期及び場所

4月6・7日の切山八幡宮の春祭

7月18日の御田道御幸祭

10月8・9日の切山八幡宮の秋祭



由来及び沿革

 宝暦の始め(今からおよそ200年前)、切山のイノサコの長重良が、京参りして竹本座の人形浄瑠璃による芝居や歌舞伎をみて帰った。ところが毎夜その面白かったことが忘れられず、ある夜彼の枕元に白髪の神が現れ「切山八幡宮の秋祭に歌舞伎芝居を造って奉納せよ。しからば切山一帯は五穀がよくみのり平和安泰となる」とのお告げがあった。そこで彼は喜び、早速この神のお告げを長男の三四良に話した。三四良も雀躍して父の命をうけ京に旅立ち、芝居の修行をして3年の後帰郷した。その時浄瑠璃本の小栗判官車街道等を持ち帰り、早速村の若い衆を集めて歌舞伎を教えたのが切山歌舞伎の起源である。その後宝暦7年の10月8・9日には掛小屋を作って上演するほどになり、その技も漸次磨かれた。

 しかし安永年間頃から農耕の不振と相まって祭の行事も下火になってきた。ところが、天明3年から4年にかけて悪疫流行して不作になやまされ、遂にそこでこれは祭神の祟りではなかろうかと里人占卜の結果虫封じのため春4月7・8日を祭日と定めて祭礼を行うこととした。それから春秋夏の祭に上演されるほどの盛況をみるようになった。しかしイノサコの長重良の子孫山本家では代々歌舞伎の演技を伝承し、世々立派な芸人となって地方公開にも大いに努めた。特に明治25年頃から八幡境内に共立舎を設置して芸人養成につとめ、その結果四国、九州、山陰、山陽、さては朝鮮や中国で招待公開するほど円熟した演技が行われた。



構成
 歌舞伎の座員の第一線に立つものはおよそ30名で、現在1人前になるためには3年以上の練習の結果認定され、3年以下の見習、15才までの子役の別があって入座には父母の同意と座員の紹介による本人のかたい誓約のもとに行われる。これら、座の保存育成については、200余名の会員によって出演や会計事務等それぞれの役割を受けもちこれにつとめている。切山では切山歌舞伎を知らぬ人は切山の人でないという位で、1人が2、3度は舞台を踏んでいる。前日に1回打合せをすれば直ちに5つ6つの芸題は上演できるほどである。

演目
 主な演目としては妹背山女庭訓の御殿の段、本期廿四孝の十種香の段、鎌倉三代記の三浦別れの段、絵本太功記の尼ケ崎之段、艶姿女舞衣の酒屋の段、仮名手本忠臣蔵の大序から六段まで、恋娘昔八丈の白木屋の段、奥州安達ケ原の袖萩祭文の段、御所桜堀河夜討の弁慶上使の段、義経千本桜の道行の段、箱根霊現躄の仇討の餞別場の段、伊賀越道中双六の沼津之里の段、恋女房染別手綱の三吉子別れの段、一の谷嫩軍記の熊谷陣屋の段、平仮名盛衰記の源太勘当場の段、菅原伝授手習鑑の手習児屋の段、朝顔日記の宿屋の段、神霊矢口渡のとん平住家、彦山権現誓助太刀の六助住家、伽羅千代萩の政岡忠義の段、壺坂霊現記の滝の段、傾城阿波の鳴戸の順礼うたの段、春日の由来の両弁杉がある。

設備・衣装・用具
 発足当時の衣装・小道具・浄瑠璃本等多数保存されており後に補足したものも含めるとその数は極めて多い。現在出演のために使用されている道具には義太夫三味線・小鼓・大鼓・三味線・鐘・楽笛・大太鼓・小太鼓・拍子木・シンバル・琴・尺八等の楽器類の58点、かづら280点、衣装がおよそ700点、それに数多くの浄瑠璃本がある。


画像
<切山歌舞伎>関連画像001(オリジナル画像表示リンク)<切山歌舞伎>関連画像002(オリジナル画像表示リンク)<切山歌舞伎>関連画像003(オリジナル画像表示リンク)<切山歌舞伎>関連画像004(オリジナル画像表示リンク)
<切山歌舞伎>関連画像005(オリジナル画像表示リンク)<切山歌舞伎>関連画像006(オリジナル画像表示リンク)

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