名称関連 | 文化財名称 | 長穂念仏踊 |
要録名称 | 長穂念仏踊 | |
指定関連 | 指定区分・種類 | 無形民俗文化財 |
指定年月日 | 昭和51年3月16日 (山口県教育委員会告示 第3号) 無形民俗文化財 | |
所在地関連 | 所在地 | 周南市 |
所有者関連 | 所有者 |
周防国富田の若山城主陶晴賢は弘治元年、毛利元就と安芸巌島に戦って敗れ、自刃した。和歌山城に留守していたその子陶五郎長房、弟小次郎等は、毛利軍の進攻にあい、城を脱して徳地佐波郡徳地町にのがれたが土民にさえぎられて道をかえ、その菩提寺である都濃町長穂の竜文寺に入った。
竜文寺は鷲頭、緑山を負い、麓は錦川の急流で囲み、守るに易く、攻めるに難い要害堅固の地であり、加うるに寺僧300、一味同心し更に開山竹居禅師以来当家の家人であった伊藤壹岐守が長穂の200余石をかたらって大門前の沼辺に塀を築き矢倉を設け、橋を落して急流を前にして毛利軍を迎え討ったので、攻防数ヵ月に及んだが、容易に勝負が決しなかった。そこで毛利軍は土人と謀らし、この地の氏神周方大明神の祭事として存在していた念仏踊の踊子に兵士を変装させて川を渡り境内に入らしめた。籠城久しく倦怠を覚えていた陶軍は、心を許して一同その踊に見とれているうちに俄然、変装を脱し、隠し持った武器をふるって切り入り、これに呼応して杉軍も川をおし渡りはげしく攻め立てたので、陶一族は枕をならべて討死し、ここに難攻不落の要害に拠った陶一族もこの奇策に錦川川畔の露と消えたという。現在陶越前守盛政、陶五郎長房、陶小次郎興昌等の墓48墓が竜文寺境内にある。以上のような陶氏滅亡の哀史にまつわる物語りが、念仏踊りの由来としていい伝えられている。この踊は当時、陶氏追善供養のため旧暦7月7日、陶氏の菩提寺である竜文寺で催されたが、後に雨乞い踊りとなって竜文寺および氏神周方神社において行われ、早魃の年にのみ催されてきた。
従来、踊子は木津、門前、小原の三部落の住民で、家督を相続する男子に限られている。
(1)大幟 1人 (2)清め桶 1人 (3)敬語 1人 (4)御面持 1人 (5)拍子木打ち 1人 (6)笛 2人 (7)太鼓打ち 2人 (8)杖 2人 (9)提匠 4人 (10)鐘打ち踊子(幟を背負い、腰輪をつけ、木刀を帯び、冠の上に紙製の鶏竜をかぶり小鐘を持つ。)12人
用具類は、陶道円の子孫という神杉初次郎の家に蔵していたが、現在は祠を造り保存会によって保管されている。これらの用具を保管する箱の上書に次のように記されている。「奉寄進 周防国富田保内長穂郷諏方社大明神御宝前者、令祈加護者、現世安穏、後世善処、武運長久、子孫繁昌、干時、天正十九年八月十九日、願主道円敬白」
観世音像(縦18cm、横6cmの木彫像)2体、面(木彫)1対、鶏(厚紙製で漆塗りの彩色、3羽の中ノ羽は必ず祠堂に残置して、2羽は太鼓打ちの冠につけて踊る。)3羽、竜(厚紙製、漆で極彩色されている。特にその鱗は1枚1枚鮮明に彩色されている。踊子の冠につける。)10頭、羽章(幟のこと、紺地に白く波を染抜く、内2本は竜を染めてあるこの2本を背負った踊子の冠には御幣をつけることになっている。「延宝七己未歳六月吉日三戸又左衛門代寄進之」と銘がある。)12本、冠12個、鐘12個。
これらの用具類は部落民は「お宝物」といって尊崇し、祠堂から取り出す時は部落の代表者(現在は保存会長)立会いの上、全踊子が集まり、竜文寺住持の読経の上、観世音から借用して踊るとの慣習がある。毎年8月7日(当地方の七夕当日)虫干しを行って読経供養をし、村民一般に公開される。
「小松(七ツバチ)」
ナムアミ トーヨ
ナムアミ シャカラカー
ドンドラ
ハリナム デデンデー
デンデラデーコー
チャン チャン チャンヤー
デラデコ デラデコー デンデラ デラデツンチャー チャン チャン
「大内(四方がらみ)」
ナミアム トーヨ
カンカン カンカン コーカー カー
ハリナム デデンデー (みせがね)
デーデー デデン デー
デーコーデーコー デンデラ デーコー (大ゆりたけ)
チャン チャン チャンヤー
デラデーコー デラデーコー デラデツンチャー
ナムアミ トーヨー (道ゆき)
唱句は練習の時は声に出して歌うが本式の時は口の中で唱え、声に出さず無声の踊りである。
画像 |
〒753-8501 山口県山口市滝町1-1 Tel:083-933-4666 Fax:083-933-4829 E-mail:
Copyright(C) 2010 山口県観光スポーツ文化部文化振興課