名称関連 | 文化財名称 | 鷺の舞 |
要録名称 | 鷺の舞 | |
指定関連 | 指定区分・種類 | 無形民俗文化財 |
指定年月日 | 昭和51年3月16日 (山口県教育委員会告示 第3号) 無形民俗文化財 | |
所在地関連 | 所在地 | 山口市 |
所有者関連 | 所有者 |
現在では7月15日八坂神社から鷺舞の道具一式を堂の前黒地蔵堂へ持ちより、鷺を描いた掛軸をその時の鷺当人の家の床にかかげて神酒其他を供えて祀る。19日夕方から鷺舞の練習をする。20日当日は夕方4時に全員地蔵堂へ参集して、先ず堂の前で初舞をする。次に当屋の前、次に津守家の前でそれぞれ一舞ずつ舞って、5時に八坂神社へ到着、神輿3体の並ぶ前面扇の芝の上で舞う。鷺は雌雄2羽であるといわれる。白帷子、長着、白襦袢、白帯、白袴で白脛巾をあて、鷺の頭の作り物をかぶり、翼の造り物を肩から腕にかけている。この鷺の頭は慶長の頃画家雲谷等顔が堂の前町に居住していたとき、作った彫刻であると伝えられている。赤熊髪は一名鷺棒つかいという。赤毛の頭をかぶり、濃浅黄麻地に鷺の定紋入り白貫染長着、立縞袴、白帯、浅黄白既染の袴をかけ釣太刀をはき、鉄砲になぞらえた長いを持っている。かんこは濃浅黄色鷺定紋入白貫染長着、薄紅色はかま、紅白既染はかまに白黒既付、烏帽子をつけ、鼓を前方につけ、これを打つみじかい棒を両手にもっている。この外に囃子をする太鼓が1人、笛2人がいる。
舞は、かんこ2、鷺2、赤熊髪2がそれぞれ並んでいると、まず太鼓の合図で笛は調べをはじめる。それにつれて鷺1は右片羽根を半びらきにして、右前方に出て弧をえがき静かに歩き出す。笛の一調べで円の4分の1くらいまであるくと笛は第二の調べになる。鷺は更に進むが、同時に赤熊髪1はその鷺のあとを追うようにやはり前方に向い、半円をえがいて進む。1の鷺が円を半周、つまり2分の1まで進んだとき笛は一しきり終る。この時赤熊髪1は円の4分の1進んでいる。鷺はこの時内側をむく。それと同時にかんこは両脚で飛びはねながら鼓をたたく。するとかんこの音に驚いて、鷺1・2は羽根を2度はばたく。この時赤熊髪はをかまえ、鷺をねらいうつまねをする。次に太鼓、笛の調べで1の鷺は更に右方へまた右羽根をひろげて弧をえがいてあるき出す。この時動いているものは1の鷺1の赤熊髪2の鷺である。それぞれが円周の4分の1をあるいた時笛は一しきり終る。この時鷺1鷺2はすぐ中央をむく。かんこは躍しながら腰鼓をうつ。赤熊髪はを平にかまえて鷺をねらう。鷺は2度大きく羽ばたく。そして一段落つくとまたそれぞれ円をえがいて右にまわりはじめる。このとき2の赤熊髪がはじめて右方へ進み出す。また全員が4分の1行くと前のような動作を各自がする。このようにして2回まわって舞は終了する。
舞い終ると3つの御輿は出発、いわゆる御神幸とする。祇園社が高嶺にあった時は、本社の楼門の前で舞い、次いで大神宮の直会殿の前で舞い、舞い終ると鷺岩の上に鷺の頭と翼を脱いで置くのがならわしであったという。
神輿3基が出発すると神官がつづき、鷺がこれについてゆく。次に「おさきばらい」と称する棒をもった者がゆき、ついで笠鉾一竿がゆく。更に「堂の前」とかいた高張提灯1をもったものがつづく。笠鉾は古くは八竿であった。この笠鉾は鷺の行列のように考えられているが、それとは別で、やはり堂の前から出すがこれは京都の祇園会の笠鉾を壬生より出すことにならい、堂の前の黒地蔵を壬生地蔵になぞらえて行ったものといわれている。鷺は道々をはやしてさるべき所々で舞ってゆき、今市の御旅所に神輿がおさまると前庭で納めの舞をして退出する。
現在鷺舞の行われている所は、山口市以外では島根県津和野町、京都八坂神社、東京都浅草、神奈川県の国府祭及び福島県勿来の熊野神社などで行われているが、その多くは中絶したものを近年再興したものである。
津和野の弥栄神社の鷺舞はこの中でも古風を残していると思われるが、この鷺舞も吉見氏が山口祇園社から遷したものといわれ、一時中絶して後に京都八坂から更に伝授したものともいっている。その八坂の鷺舞も早く中絶して先年津和野から逆輸入していっているような状態で、はたしてどこの鷺舞が最も古態を伝えているかという点を比較して、これを指摘することは不可能である。しかし山口市の鷺舞だけはこの間中絶することはなかったといわれる。津和野のものと比較してすべてが簡素で、現代人の目には魅力の少いものである。演舞する時間も正味2分あれば可能である。あるいはそのことがかえって古風を残しているかも知れない。
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