名称関連 | 文化財名称 | 蓋井島「山の神」神事 |
要録名称 | 蓋井島「山の神」神事 | |
指定関連 | 指定区分・種類 | 記録作成等の措置を構ずべき無形の民俗文化財として選択されたもの |
指定年月日 | 昭和34年3月28日 | |
所在地関連 | 所在地 | 下関市蓋井島 |
所有者関連 | 所有者 |
(昭和33年神事記録)
蓋井島の各山には、祭を世話する当元がそれぞれ世襲されている。一の山は藤永家、二の山は上野家、三の山は中村家、四の山は周防家である。村の各家は何れかの山に所属しており、39戸の家を山毎にわければ次のようになる。
「一の山」 藤永峯三郎(当元)
藤永政記、村上長松、酒井千代子、泉昌行、山根武夫、村上保、下田一久
「二の山」 上野三頼(当元)
松本清治、倉本源吉、松本長男、松本延行、上野アヤ子、今西役治、木谷松子
「三の山」 中村清和(当元)
榊行長、有田高一、林昭二、椎野公一、榊吉春、中村伝作、林繁光
「四の山」 周防享(当元)
弘中弘、西慈郎、島本栄治、向橋豊、大空政一、周防浅次郎、島本光
大空森三郎、松井ハシ、西昇、山田繁一、中島タツノ、島本ノブヨ
○祭の準備
祭の費用を得るために、春各山共同で、山の神の森以外の山林の木を伐り、秋祭礼に先立って下関に売り出し、その収入を大賄の買物にあてた。
山の神に供える月形、日形の大餅と月の数だけの小餅、荷俵に入れる75の小餅祭事終了後の餅撒き用の小餅にそれぞれ当てるために、一の山は本軒7戸、分家2戸が、それぞれ山糯米1升もちよった。二の山は、本軒3戸、分家4戸、各戸糯米2升ずつ、麦は本軒のみで3升5合になるよう負担した。三の山は本軒5戸、分家3戸。各戸糯米1升ずつ、麦は本軒各7合ずつ負担した。四の山は本軒4戸、分家5戸。各戸糯米2升ずつ、麦は本軒のみで3升7合になるよう負担した。
祭の約10日前頃から、沖のしけた時を利用して集落から各山(森)に至る道路の手入れを行う。作業者は各山の組中のものが当るが、男性を主体とし、女性の参加も見られる。この場合月経時の女性は参加しない。
山の森では祭の前約3日間をかけて神籬の周辺の清掃を行った上、枯れた立木を伐って、新しい神籬を作る作業が行われる。作業は男性を主体とする。月経時の女性は排除される。森の中に枯木を残さぬように注意し、枯木は根元から伐り取り、1間半ないし2間に整理してもり寄せる。神籬の前の壺の中の落葉は除去され、少なくとも口縁部は明瞭に浮び上がるように手入れが行われる。この山は壺が盗難にあったとされているので、その作業は行われない。以上の作業のあとで、森の神籬の前に朴で作った膳と箸各75が用意される。三の山と四の山では出土した銅貨を並べ供える。
○神事の進行
山の祭事は本来当元がとり行ったものと思われるが、記録の示す限りでは豊浦地区から神官が迎えられて司祭している。神官を島では太夫とよぶ。
第1日
午後6時頃から、一の山、二の山、三の山、四の山の順に神迎えが行われる。家のしめ縄が奥の間に張られる前に山の組中の青年4~5人ないし5~6人が御幣75本を作る手伝いをする。彼らは「随伴」とよばれる。太夫のが切った幣を竹にはさむ作業を先ず片づける。その他太夫のいいつけに従い、太夫の手助けをする。太夫は白衣に身をつつみ、御幣を切り、しめ縄にシデをつけ、白幕を奥の間に張りめぐらす作業を、随伴に助けられつつ行う。ただ祭壇を作る際には官服を着ける。腰掛俵には75本の幣を立てるが、全部立てる余地がないので、余分は束にして飯櫃にさす。祭壇には御食(おごく)、神酒、洗米、月形日形の大餅と月の数だけの小餅を折敷に載せ、海魚、大根、山芋、一夜作りの甘酒(御水桶に入れる)、えび(さざえ殻に入れる)、だいだいあるいはリンゴ、みかん等の果物を供える。
祭壇の準備ができると、しめ縄が奥の間に張りめぐらされる。随伴は神の間となったその部屋には入ることは許させない。この間に出入りできるのは太夫と当元のみとなる。一切の準備が完了すると、太夫は警蹕の声をあげて神を迎える。その際、次の表の間には当元が正座して、上体を深く折りまげ頭を深く下げて神迎えをする。
それぞれの山の血縁者は遠く島外からも来参する。各山の組中のものは誰はどの山に、誰はどの山に行くとあらかじめ参り合う所を予定して、当元家に連絡する。その場合米一升を携行することになっている。
神迎えの夜から第2日の夜中にかけて各山のものは「山の神様つくりもの」を作るために、それぞれ、ひそかに組中の秘密の一軒に集まって「つくりもの」を作りはじめる。
第2日
祭事としては別になく、太夫のための「かたけ賄」が行われる。
山の神様つくりものは、この日の夜完成する。夜半をすぎて、山の神の森にそれぞれ運び、夜が明けるまでに飾りつけを完了させる。山の神は「つくりもの」の飾りつけのすんだ山の森に第3日の昼すぎて送りこまれる。
一の山の山内の者の賄が、昼の賄として行われた。
第3日
二の山の当元家で各山共催の大賄が昼行われる。
大賄が終りに近づくと太夫は座をはずして、一の山の当元家にて、一の山、二の山の神送り行事をとり行い、ついで三の山、四の山の神送り行事をとり行った。神送りの行事の進行に伴ない各山の氏子は順次、次の山の当元家に集まり、最後に四の山の当元家に集まる。奥の間には、太夫、当元以外ははいることが許されないので、多くは土間か炉部屋に集まり行事を見守る。
神送りの行事はいずれの山においても次のような順序で行われる。まず帰還の祝詞を奏する。次に桝に入れて祭壇に供えてある75の浜の「まさご石」を奥の間のみでなく、表の間、その他あらゆる部屋にまき、次いで抜刀して各部屋を祓い、更に「祓串」をもって各部屋を祓う。最後に土間におりて、杵をとって土間におかれてある空臼をつく。それらのすべてを太夫(斎主)が行う。
山の森への神送りは次の順序で行われる。
当元は75本の幣を「ひとふごも」に包み、「神の締め緒」で縛り、腰に脇差1本をさし、「ひとふごも」で包んだ幣を両手で抱える。
一の山の当元藤永氏は行列の先頭に立って塩をまく役をつとめる。そのあとに一の山の少年(藤永氏の孫)が祓串をもって続く。つぎが神官、続いて一、二、三、四の山の順で当元が山の神を奉じて行く。その後に斎主神官、続いて各山の氏子が、山の締め緒(神籬を締めるに用いる)、供物としての御食(重箱にいれてある)、餅をのせた荷俵、餅撒き用の餅を入れた俵、御水桶(甘酒を入れてある)、えび(さざえ空に入れてある)等をそれぞれの山の氏子が奉持して従う。
田町の入口で、四の山の神送りのグループは他の山の神送りのグループと別れて、四の山の森に向う。別れる時に幣をかかえた当元たちは互に「7年目に会いましょう」と呼び合う。
八幡社を過ぎる前に、餅撒き用の餅を携えた氏子はその餅を八幡社の下の餅撒きの行われる所におきにいく。
筏石の谷地のかかる迄に「山の締め緒」、「荷俵」その他の供物を携えたものは行列から抜けて山の森に先行する。筏石の谷地にかかるや、先ず二の山のグループが二の山の森、次いで三の山のグループが三の山の森へ別れ、最後に一の山のグループが一の山の森へ向う。
別れる場合には何れの場合にも当元たちは「7年目に会いましょう」と呼び合うのである。
「ひとふごも」に包んだ幣を神籬の中に送り入れると、山の神は神籬の中に送り入れられたと考えられている。山の神を神籬の中に送り入れるや、神官又は氏子たちは75尋の山のしめ縄で神籬の周囲を幅広くぐるぐると巻きしめる。そのあと、神籬の前にほり据えられている壺に一夜作りの甘酒を注ぎ入れる。神籬の前の朴の膳には重箱から取り出して御食(小豆飯の所と白飯の所とある)を供え、75の小餅を供えるのであるが、その際には他の山の氏子が餅を奪うためにしのびよっていて争奪がはじまる。そのため、一々朴の割木の膳に配分するいとまはない。
餅奪いは慣例になっている。盗み取られないために防衛しなくてはならないので、急峻なおとし場を作っている山もある(三の山)。本来うまく盗みとった方が運がよいとされ、盗みとられた側は運が悪いとされるものである。
最後に各山の当元は他の山を巡拝して御食を供えあう。
こうして神送りが完了するや、島中のものは八幡社の下、即ち宮の下に集まり餅撒きの行事が行われる。
神送りの先頭に続いて少年が奉持した祓串は八幡社におさめられる。
この日の夕刻、三の山の当元家で三の山の山内の者の賄が行われた。本来はこの日の夕刻即ち神送りのあとで、三の山の大賄が行われるのである。既に山の神はいないので緊張はゆるみ、はじめて笑いが出る。食事のあと、餅を入れた「ぜんざい」を食して賄が終る。
第4日
神送りの翌日の朝四の山で、三の山と同様四の山の山内の者の賄が行われる。本来は四の山の大賄が行われる。この賄は最終の賄であるので、特に「なおらい」ともよばれるようである。
なお、第4日目の朝太夫を送り帰してから、昼から夕刻にかけてどこの山でも、残りもので食事して、祭事を終了する。これも一般には「人はらい」とよんでいる。散会の意であろう。
[当元家神事関係品] (昭和33年度記録)
1 朴の膳 75人前
2 朴の箸 75人前
3 杓子(竹製) 1本
4 山の標縄 75尋
神送りのあと森の神籬をしめるのに用いる。
5 荷俵 1俵
75の餅をいれる
6 腰掛俵 3升5合又は3升7合の麦をいれる。
7 家の標縄 9尋半
当元家の神の間となる奥の間に小幅の白布をはりめぐらしその上に標縄をはりめぐらす。
8 ひとふごも 1枚
神送りの際、山の神の依代と見られる御幣を包むのに使う。1本の「ふ」を用いるだけであるから、うっかり扱うとばらばらになる。
9 御幣竹
根元をそぐ。大1本又は2本。小75本。竹の寸法は小幣は中に1節をはさむように切り、長さ51.5cm(1尺7寸)とする。大幣はほぼ90cm(3尺)位のもの。三の山は大幣2本を作るが、他は大幣は1本を作るのみ。
10 半紙 5帖
幣を作るのに用いる。
11 神の締め緒 1すじ又は2すじ
よってふさをつける。神送りの時に御幣を包んだ「ひとふごも」の上から締めるのに用いる。
12 白木綿又は晒 1反(小幅)
当元家の神の間となる奥の間にはりめぐらす。
13 御水桶 1又は2
「ごすいおけ」とよぶ。これに1夜作りの甘酒を入れて神に供える。
14 小石 75
「浜のまさご石」とよばれる。小芋ほどの大きさのもの。桝に入れて神座におく。
15 さざえ殻 1
潮の花を入れ、えび2尾又は3尾を入れる。四の山では3尾入れ、他は2尾入れた。一の山では茶碗に潮の花をいれて、えびを入れたさざえ殻と並べて供えた。
16 神酒
徳利に1瓶供える所と2瓶供える所とあった。
17 内の散米 3合
当元家の神座に重箱を入れて供えるが、神送りに際してはこれを、山の森の神籬に持参して供える。
18 餅
月形1(大餅)日形1(大餅)いずれも目方750g(200匁)と、月の数の小餅を折敷に載せ、その他小餅75を荷俵にいれて神座に供える。
19 おごく 3合
おごくは炊いた飯
20 海のもの
一、二、四の各山は小鯛2枚、三の山は鮑、昆布、鯛2枚
21 野菜
大根2本又は3本、山芋1本又は2本。二の山では大根3本、山芋2本。他の山は大根2本、山芋1本
22 果物
一の山、二の山は柿とりんご、三の山はりんごとみかん、四の山は橙をそれぞれ供えていた。
[山の森の神籬] (昭和45年度記録)
一の山の神籬 開口部の方向は南西向き。斜面の上方には、やや短めに整えられた枯木が寄せられ、下方には長目に整えられた枯木が寄せられている。上方で1m75cm、下方で2m40cm。底部のひろがり2m20cm。神籬の正面に口部を地上に出るようにして壺が掘りすえられている。神にぎわいのための作りものの人形の一部が既に立木を利用してとりつけられている。本来は山の神が当元家の祭壇に迎えられている間に、各山とも、夜間ひそかに、趣向をこらして作るべきものであった。
二の山の神籬 開口部の方向は西向き。自然木を利用して、截断された枯木が盛り寄せられている。斜面の上方には、やや短めに整えられた枯木が寄せられ、下方には長目に整えられた枯木が寄せられている。上方で1m50cm、下方で2m25cm、底部のひろがり1m50cm。神籬の前には25cm×34cmの平坦な石がおかれていて、その上に、森さらえの時、出土した銅銭1枚がのせられていた。
祝い堀り据えられているべき壺は過去において盗まれたと伝えられている。藁で作られた人形が自然木を利用して作られていた。
三の山の神籬 開口部の方向は西向き。自然木を利用して、截断された枯木が盛り寄せられている。斜面の上方にはやや短めに整えられた枯木が寄せられ、下方には長目に整えられた枯木が寄せられている。上方で2m、下方で2m60cm、底部のひろがりの径は2m70cm。前に壺が堀り据えられている。山さらえの時、出土した銅銭3枚が糸でつながれて、供えられていた。
四の山の神籬 開口部の方向は東南向き。斜面の上方では短めに整え、下方では長目に整えた枯木を盛り寄せて、神籬を作る形式は他の山と共通しているが、自然木を利用していない。この形式が古代の神籬だと見られる。
上方で2m、下方で2m40cm。前面に壺が掘りすえられている。森さらえの際出土した銅銭3枚が供えられていた。
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