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文化財要録コンテンツ

名称関連文化財名称漆絵枝菊椀(大内椀)
要録名称漆絵枝菊椀(大内椀)
指定関連指定区分・種類工芸品
指定年月日昭和59年4月10日(山口県教育委員会告示 第1号)
所在地関連所在地防府市多々良1丁目15-1
所有者関連所有者財団法人 防府毛利報公会


文化財詳細
制作等の年代又は時代
室町時代

員数
五組(四椀一組)

由来及び沿革

(1)大内時代の対外貿易と漆製品

 大内氏は24代弘世が山口に居を定めた後、中国鎮西の雄としてその勢力・財力共に発展していった。

 この大内氏の財力を支えたのは、対鮮・対明貿易による財貨の獲得であり、この経済的基盤の上に華やかな大内文化が開花した。

 対鮮貿易は、25代義弘の代に九州平定後直ちに高麗との交易を開始しているが、(天授5年=1375「高麗史」)その背景には倭冦の鎮圧を義弘に依頼するという理由もあった。

 対明貿易は、28代教弘の代に始まり、博多を中心として活発な交易が続いた。これら対外貿易の史実は、重要文化財(歴史資料)の大内氏勘合貿易印(財団法人 毛利報公会所有)が如実に示している。

 勘合貿易における日本からの主な輸出品は、硫黄・刀剣・扇などであったが、当時大内氏が対鮮貿易の際に献納した品物のなかに多くの漆製品があり、輸出品の一つとして考えられる。李氏朝鮮の正史である「李朝実録」に記載の中の、椀・盆・鑓・鞘などが漆製品と思われ、さらに時代が下がると共に、漆製品の種類も増し、技術水準も高くなっていったことがうかがわれ、また、漆製品の占める割合が他の献納品と比べて比較的高く、その重要性が推測される。

 これらの製品が、山口で製造されたものかについては確証を得られないが、刀剣類の鞘塗りについては『大内家掟書』の文明17年(1485)家老連署の下知書に塗物代を定めた記述があり、山口での製造品であることが推測される。他の製品についての製造に関する具体的な資料は現在までのところ発見されていない。

 大内氏ゆかりの漆製品には、重要文化財に指定されたもの4件、重要美術品として認定されたもの2件がある。そのうち在銘のものは、山口市弘津家蔵の文明10年(1478)の四脚盤(重美)があるが、いずれも技術・色彩・形状などすぐれたものであり、当時の漆工芸技術の優秀さを物語る。

(2)江戸時代の漆製品

 天文21年(1552)の大内氏滅亡とともに対外貿易は途絶え、その後の弘治・永禄の兵火により山口における伝統工芸は、壊滅状態となった。

 さらに毛利氏の萩居城に伴い、山口の町は衰退していくが、漆工芸は廃絶することなくその伝統が維持されたと推測される。

 江戸時代初期~中期頃までの漆製品を考察するに、その呼称として大内椀・雪舟盆・山口盆・大内盆・雪舟塗などがあり、中世大内時代の工芸が受け継がれ、技術水準も維持されていたことが推測される。

 江戸中期以降は、質朴で実用的な日用品としての漆器の製造が続けられ、天保年間の「風土注進安」の記載によれば「椀屋三十軒」「椀類凡壱万四千五百人」とあり、相当数扱われていたことがわかる。

 これらが実用的な製品であったことを示す資料として、萩藩の「品定め箇条」の贅沢品を禁止したなかに、「椀は山口椀の程度で我慢するように」との一ヶ条がある。また、「注進案」に雪舟盆についての記載があり、領国内はもとより九州地方にまで販路があったことがわかる。

(3)明治時代の大内塗復興

 明治18年の明治天皇山口巡幸に際し、県では古器物を天覧に供するために近藤清石が調査に当たり、毛利家の倉庫内に大内椀(清石著の「大内家工芸考土代」によれば「大内千人椀」とある。)を発見し、この復興が試みられることになる。

 清石は、山口竪小路在住の鞘師岩本梅之進(梅吉)が旧藩時代から堅地塗をよくしていたので、毛利家の大内椀を貸し与え、その模造をさせた。(当模造椀は毛利報公会所有)

 その後、会津塗の製作図案を参考としたり、さらに大内菱、秋草模様などに工夫を加えて改良を続け、技法の研究にも努めた結果、販売を開始するに至った。

 以後大内塗の名称で普及し、その種類も飯器以外に応用され、今日では山口の特産物の一つとなっている。

 なお、毛利家蔵の大内椀に類似の椀が山口市の龍福寺に伝来していたが、(「風土注進案」に図面記載)明治34年3月の火災により焼失している。

 この大内塗は、昭和10年5月10日付けで重要美術品として認定されている。



構造及び形式

【構造・形式・法量】

(1)法量(単位㎝)

(2)構造・品質・形状

 本椀・平椀・汁椀・壷椀の4椀1具で各椀の断面構造については別図による。

 素地は木材で、樹種はケヤキと思われるが、木地の露出部分がないため不明である。

 成形は轆轤による挽物造りで、木取りは竪木取りと思われるが、木やせによりみえる木目からは横木取りである可能性もある。

 口縁部は紐造り出しとする。

 漆は、①渋下地(目止めのため松煙を混ぜる) ②総体ベンガラ漆塗 ③黒漆 ④箔押し ⑤黄漆の工程順序で塗られている。

 雲形を描いた黒漆はすけて少しあめ色がかっていて、この上に押されている金箔はちぢみが出ており、黒漆がかわかないうちに箔押ししたことがわかる。

 枝菊文や細線を描いている黄漆は、石黄の粉をまいたもので、葉の部分で下地漆のつけ方が厚く、細線の部分では薄い。

 文様は、身・蓋とも内側はベンガラ漆塗りの茶色。表側は、本漆の身を例にとると、両端を金箔で縁取りし、その内側に黒漆の雲形を描き、雲形にはさまれた中央部分に黄漆の枝菊文を三方に配し、さらにその枝菊の間に金箔の四菱形文(大内菱)を三方に散らす。




地図



画像
<漆絵枝菊椀(大内椀)>関連画像001(オリジナル画像表示リンク)<漆絵枝菊椀(大内椀)>関連画像002(オリジナル画像表示リンク)<漆絵枝菊椀(大内椀)>関連画像003(オリジナル画像表示リンク)<漆絵枝菊椀(大内椀)>関連画像004(オリジナル画像表示リンク)

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