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2019/03/05 【文化財小話】昔々山口県には造幣局があった!?

 奈良時代から平安時代にかけて山口県には、貨幣(銅銭)をつくる鋳造所(ちゅうぞうしょ)として、長門鋳銭所(ながとちゅうせんしょ:下関市長府)と周防鋳銭司(すおうのじゅぜんじ:山口市鋳銭司)が置かれていたことは広く知られています。特に周防鋳銭司は、長登(ながのぼり)銅山に近いという立地にも恵まれ、全国の鋳銭司の中で最も長い間貨幣の鋳造が行われました。平安時代前半から半ば(820年代~950年代)にかけては国内で唯一の貨幣鋳造所でした。しかし、天慶2年(939)に起きた「藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱」で焼き討ちにあい、その後衰退していったと伝えられています。

 それから数百年以上もの間、公式の国産貨幣は存在せず、大陸からの輸入銭が国内に流通することになります。裏を返せば、その当時の庶民の経済活動は物々交換が中心で、貨幣はそれほど重要なものではなかったともいえるでしょう。

 鎌倉時代の後期になり貨幣の流通が活発になると、全国のいたるところで私鋳(しちゅう:中国銭を種銭(たねせん)に私的に鋳造すること)が行われるようになります。その結果、一部が欠けているもの、穴が空いていないもの、字が潰れて判読できないものなど、粗悪(そあく)な貨幣が出回ります。これらは鐚銭(びたせん)あるいは悪銭(あくせん)と呼ばれ、敬遠されました。ほんのわずかのお金を意味する「びた一文(びたいちもん)」の「びた」はこれに由来します。
 戦国時代に入ると、莫大な富が手に入る金山や銀山の掌握は、大名の戦略の一つとなっていきます。信長・秀吉・家康と受け継がれ、江戸時代に入り三代将軍家光によって三貨制度(金・銀・銭)が確立します。

 江戸幕府は、寛永13年(1636)に江戸浅草など4カ所の銭座(ぜにざ)で「寛永通宝(かんえいつうほう)」の鋳造を開始します。翌年には、長州藩銭座(ちようしゆうはんぜにざ:美祢市美東)を含む8カ所で新たに貨幣の鋳造が開始されます。寛永17年(1640)に幕府から新銭の供給過剰との名目で鋳銭停止命令が出され、操業期間はわずか3年4か月で終わってしまいますが、この話には続きがあり、停止命令後も村人が密鋳(みつちゅう)をしていたことから、寛文5年(1665)、藩によって焼き討ちにされたと伝えられていますが、真偽のほどは分かりません。

 このように、山口県には奈良時代から平安時代にかけての時期と、江戸時代前期の時期に合計3カ所でお金を造る工場(造幣局)が存在していました。現在、「長門鋳銭所」と「周防鋳銭司」が置かれていた場所は、いずれも国史跡に指定されています。
 また、史跡「周防鋳銭司跡」では、指定後約半世紀の時を経て、平成29年(2018)の夏から山口大学と山口市教育委員会が共同で発掘調査を再開し、鋳銭工房に関する新たな発見が報告されています。  「長州藩銭座跡」については、山口県教育委員会が過去に2度実施した確認調査により、銭座の位置と区画範囲がほぼ特定されています(現時点未指定)。また銭座周辺では、美東町(現美祢市)教委や県の埋蔵文化財センターが開発に伴い実施した「銭屋(ぜにや)遺跡」の発掘調査により、鋳銭の前段階にあたる製錬(せいれん)工程に関する貴重な発見が報告されています。

 現在、キャッシュレス時代が押し寄せ、スマホ決済の出現で、クレジットカードさえも必要のない時代が到来しつつあります。経済システムや生活スタイルの変化により、将来、史跡の看板に、「銭とは昔こういう使い方をしていたもので、形や大きさ、種類はこういうものがありました」という説明文を付け加えなければ人々に理解してもらえない時代が来るのかもしれませんね。(N)



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