幕末維新/内容
◇幕末維新
天保年間のころを中心に、全国で百姓一揆がたかまり、老中水野忠邦による天保の改革がおこなわれました。けれども、これといった効果をあげることはできませんでした。
1853年ペリーが来航し、開国をせまられた幕府は、翌年開国を決断し、日米和親条約をむすびました。この流れをうけて、1858年大老井伊直弼が日米修好通商条約に調印しました。
この調印と将軍家茂の後継問題をふくめて、井伊直弼の強引なやり方に、水戸藩や越前藩および草莽の志士のあいだから批判がおこりました。井伊直弼は反対するものに対して厳罰でのぞんだ(安政の大獄)ため、水戸藩浪士に桜田門外で暗殺されました。大老が暗殺されるという前代未聞のことに、幕府の権威は地におちることとなりました。
【長州藩では】
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天保の大一揆をうけて、長州藩では村田清風が登用され、藩政改革がおこなわれました。
このときの改革派の流れが、のちに松下村塾の門下生と結びつき、尊皇攘夷運動から倒幕へすすんでいく原動力となります。
ペリーの来航によって、全国で、開国派と攘夷派の争いがおこりましたが、長州藩では、吉田松陰の松下村塾の門下生を中心とした尊王攘夷派が、一時は藩政を支配し、下関で四カ国艦隊に対して砲撃をおこないました。
しかし、翌年に四カ国艦隊の報復攻撃をうけ、あっけなく砲台は占領され、破壊されました。
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さらに、禁門の変で京都から長州系攘夷派の勢力が一掃されたこと、幕府による第一次長州征伐が行なわれたことで、幕府に従順な派閥が藩政の主導権をにぎることとなりました。
そのさなか、高杉晋作と、彼が創設した奇兵隊が蜂起し、武力によって主導権をとりかえすという内乱がおきました。
この内乱で幕府に従順な派閥は一掃され、倒幕へと藩内は固められました。
幕府は第二次長州征伐を決意し、軍を長州へすすめ、四方から攻めたててきました。
これに対し、桂小五郎(木戸孝允)に起用された村田蔵六(大村益次郎)のもと、西洋式に軍制改革をおこなった長州藩は、四境(石州口、芸州口、大島口、小倉口)で勝利をおさめました。
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その後、奇兵隊など長州藩の諸隊は、新政府軍の主力として戊辰戦争を戦いぬきますが、明治になって、人員整理をおこなおうとする新政府と対立し、徹底的に鎮圧されました。
【関連する文化財】